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MAGAZINE

ナオヤ・タカクワの日記         2020.05.15-05.21



5月15日(金)

さっき部屋に入ったカメムシを捕まえてきたところだ。夜は素晴らしいが、虫には煩わされる。夕飯にハリボーのグミを食べている。同じ形をしたグミたち。色だけは自由に選べるらしい。食べ過ぎて歯が痛くなってきた。パッケージの黄色い熊に話しかけてみた。彼は糖尿病のような腹をしながら笑顔を僕に向けていた。彼は一言しか発していないし、その一言は永遠に雲のような形をして宙に浮かび続けている。「The original since 1922」と彼は永遠の時間の中で僕に伝えている。それは糖尿気味の腹を抱えた父を思い出させた。

音楽や映画から遠のいた生活をしている。それは僕を苦しめていくようだ。僕は気力を失い、シャワーを浴びることすらできない。丸三日洗っていない体からは今日も汗がしたたり落ちている。シャツを変えればいいだろう。部屋の隅から新しいシャツを拾って着替える。僕の知らない匂いがした。洗剤とカメムシの放つ悪臭の混じった、それは僕の気持ちを少し柔らかくし、少し固くする。あとは冷たい風がこの汗を冷やしてくれればいい。しかし今夜は、虫が入ってこないように窓を締め切っておくことに決めたのだ。

窓の近くの畳は黴が生えている。以前の住人が、雨の日に窓を開けっ放しにしておいたせいだろう。見えない相手に向かって悪態をつきながら頭を掻く。黴たちは普段僕のことを苦しめることはない。ふとした瞬間にまじまじと眺めていると、少し悲しみを感じるだけだ。目の隅に入っているだけなら特に問題はない。ちょっとしたルームメイトだ。

少し音楽を聴こう。ウム・サンガレを聴いている。そしたら、なんだか泣けてくるみたいだ。途方にくれたところで、見知らぬ、しかしながらずっと前から知っているような気がする風貌の女性に抱きしめられるような感覚だ。やっぱり今日も少しウイスキー・ソーダを飲もう。いや、ウイスキーを切らしていた。

冷蔵庫を漁ると、萎びたレタスと、2日前に買って半分残したトマトと、瓶の中に詰められた原型はなんだったか想像がつかない黴の塊が入っていた。レタスを一口齧って、この時間でもやっている近くの店––––このあたりではその店を「コンビニ」と呼ぶらしい――に行こうかと考えている。夜の風が体を冷やしてくれるだろう。ついでにビールかウイスキーを買ってくればいい。だけどそれを買うための金はどこからやってくる?我々は金がなくなったらその辺からむしり取ってきているだけだ。銀行に行って、無表情な機械にカードを突っ込み、あとは必要な金を入力すればその分が出てくる。その金がどこからやってきたのか知らないし、知ろうと思ったこともない。ただ、毎日朝早く起きて決まった場所に行って、働いているふりをすれば金が入ってくることを本能的に知っている。猫が自分がどこで用を足せばいいのかわかっているのと同じだ。そこに理屈はない。ただ“そう”なのだ。

今日書いた半分は嘘で、半分は本当のことだ。それが小説だと誰かが言っていた。


5月16日(土)

僕の欠陥はグルーヴがないと文章が書けないことだ。そのためにジョン・コルトレーン・カルテットの「アフリカ」を流している。僕の指先はグルーヴしていきなんとか文章を書くことができるし、普段指の届かない背中の真ん中のあたりを掻くことさえできる。音楽の中では語呂合わせの簡単なギャグさえグルーヴに変わっていく。というよりグルーヴに飲み込まれていく。全ての楽器の音はグルーヴを生んでいるのではなく、グルーヴに飲み込まれている。じゃあグルーヴってのはどこからきたんだ? それはもちろん我々の心臓の鼓動であり、蜘蛛が何か他の虫を咀嚼するリズムであり、植物が根から水分を吸収する音であり、地球が自転し、宇宙が膨張していることからだ。

60年以降のコルトレーンは人々や地球や宇宙とグルーヴしようとしているように聞こえる。もしかしたら音楽によって難関な数式を解いたり、フィラメントに電流を流し明かりを灯したり宇宙の創生の秘密を明かしたりすることができるかもしれない。実際に僕はある種の音楽を聴いたり、演奏したりしている時に自分の体の細胞が組み替えられていくのを感じる。DNAは書き換えられ、その瞬間僕は人類ですらないし生き物や物質ですらない。概念も欲もなく、音楽と、そのグルーヴと一体になっているのを感じるのである。もしかしたら生命はリズムから生まれたのかもしれない。

そして僕は、現在この文章を書くのに使用しているコンピュータの構造は実に音楽であることに気づく。その根幹となっている0と1によって全てを表す方式はリズムである。0が休符で1が実音である。それらの連なりがシンコペーションを生んだりさまざまなリズムを作り出している。僕はプログラミングの勉強をサボっていたために全くプログラムを書くことができないが、それは本当に音楽的な作業なのだろうなと想像して目眩を起こすほど陶酔した気分になってしまう。それがわかれば、プログラムを見るたびにバッハを聴くような気分になれるし、作曲家の面持ちでプログラムを書くことができるのに。

今僕に起きていることは数列と音楽と僕の三者の循環作用である。PCから流しているコルトレーンがイヤホンを伝わって僕の耳に届き、僕の両手はPCのスクリーンに文字を刻んでいく。これは一種の永久機関みたいだ。

しかしこの『アフリカ/ブラス』ってアルバムはトンデモないな。


5月17日(日)

何もできない日ってのがある。ベッドの上で映画を観て、時々ウイスキーとソーダを混ぜに台所に行けばいい。

何もかもできるって日もある。体力が有り余って、ギターの弦を張り替えて、洗濯をして、スパゲティを茹でて、どこかに出かけるのだ。そして大抵は妻と喧嘩して落ち込むのだ。

今日はその両方をやったおかげで1日が一週間にも感じられた。

5月18日(月)

シャツのポケットの上に赤のボールペンのインクが染み付いた。ボールペンっていうものには時々とんでもなく腹が立つものだ。僕は仕事中ひっきりなしにボールペンの先の部分と柄の部分を解体してまた元に戻す。解体されたそれは無力なものだ。ものを書く機能すら失っている。去勢された犬のようだ。僕はそれを解体し元に戻すことを繰り返すことで、自分がボールペンより優位に立っていることをわからせる。いわば仮の調教作業であり、少し柄にひびが入ってしまったそれは、少し柔らかくなり取り回し易くなる。僕はなんどもなんどもそれを繰り返すことで、従順なしもべを手に入れ、自信を取り戻そうとしている。自分という存在の脆さに、その行為をしている自分を見ることで気づかされるわけだ。

それは権力に溺れた愚者たちを思わせ、僕を狼狽させる。徳川家康であり、ヒトラーであり、ロックフェラーの人々だ。彼らを憎むがゆえ、僕は彼らに同化していく。むしろ僕が彼らに似ているがゆえ、彼らを軽蔑しているのかもしれない。どちらにしても同じようなことだ。結局ニワトリと卵の議論には正解がないし、それをいうと大元はアメーバであり、視野の狭さが生んだ議論であることに気づかされる。どちらが先かという議論では、比較に意味はなく、その根源の全く別の何かがあることが重要なのだ。権力を敵視するのは少し子供っぽいおこないかもしれない。それというのも、大人は子供という比較対象を得ているがゆえ、大人であるということが原因であるのだが。

過去に遡ることで、“現在”のものの見方は変わってくる、というのも今回の検証の大きなテーマである。アメーバを引き合いに出すことで、ニワトリと卵という比較は幼稚なものに思える。単純な物事の原理を忘れていたかのように。僕は人間が人間である以前に、この世界がプログラムでできていること、僕の妻はロボットであり僕もまたロボットであること、今飲んでいる酒はH2OだとかCO2だとかが巧みに混ぜ合わされて出来上がっていること、を思い出すことができる。

過去は検証可能な唯一の材料である。“現在”は我々の中には存在しないのだということを皆忘れている。我々がものを観たとき、それは光の速さのぶんだけ遅れてやってくる。我々が音楽を聴くとき、それは音速以上の速度では僕たちの耳に届かない。そして、我々の知覚は脳で形をとるため、神経伝達のための時間が余計にかかっているのだ。我々が観ているテレビも、向こうの山の風景も、君のいるその部屋だってすべてアポロ11号と同じくらい過去の産物だ。所詮それは、現在から近いか遠いかの差でしかないのだ。

今僕は過去の酒を飲み、過去の音楽を聴き、過去の自分の指で、過去のPCを使って、これを誰かが目にするころにはとんでもないくらい昔に書かれたものになっているであろうこの途方もなく無骨で無価値で無遠慮な、しかしながら率直でユーモラスで反吐吐きの文章を書いたりして、過去の時間を潰して、また一つ先の過去へと進んでいく。過去に向かってサヨナラと言ってみた僕はもう過去の産物だ。うんざりして“過去”を全部ゴミ箱に捨ててみて思ったのは、それってそれほど悪いものじゃなかったなってこと。


5月19日(火)

歯磨きをした後、途方もない衝動におそわれてウイスキーを飲んでいる。甘くて苦い。舌が痺れて心地よい。今夜は少し寒い。最近、暖かかったせいでそう感じる。雨は少し暖かかった。シャワーを浴びているようで、こんな雨は悪くない。低気圧の質により僕の体調は良くなったり悪くなったりする。湿度がちょうどいいとギターの調子がいい。冬の乾燥で反ってしまったネックが元に戻ってきた。僕の背筋は少し曲がってきてしまった。背骨にトラスロッドが入っていて、その反りを簡単に戻せたらいい。たまに、ギリギリと大型のドライバーで回してやればいい。

トラスロッドっていうのはだな、ギターのネック部分に入っている金属の棒のことで、それをギリギリと回すと、腰の曲がったネックが背筋を伸ばし始めるんだ。シャンとしてくれていたら気持ちいい。けど僕のフェンダーのギターはトラスロッドを回し切ってしまったためこれ以上曲がった腰を元に戻してやれない。そこにはリボ払いが上限額に達してしまったときのような緊張感があるのだ。

今日紹介したいのは以前にも言及した『音楽入門』という本である。これはキンドル・アンリミテッドで読んだ。作曲家の伊福部昭によって1951年に書かれた。伊福部はゴジラとかの作曲をしている。これが面白いのは、1951年の日本で書かれたものだということだ。印象派や現代音楽やジャズがまだまだ新鮮なものとして書かれている。現代から俯瞰して見ると遠くに見えるものが、近い位置から見えているおかげで印象が全く異なるのだ。モノフォニーとポリフォニーとホモフォニーの解釈すら新鮮だった。しかし、印象派ってのが一番面白い。絵画の印象派との比較の文章なんかは芸術的だった。

印象深かったのは、この本で引用されていた「音楽は音楽以外の何ものも表現しえない」というストラヴィンスキーの言葉だ。

簡潔に、絵画は現実のものを描くことができるし、それを見るとその“もの”が描かれているのだということを認識することができる。一方で音楽は、特に詞を持たない純粋な音だけの表現とした場合にそれは具体的な何かを表現し得ないということだ。ドビュッシーの「月の明かり」をタイトルを知らずに音だけ聞いて、月の明かりを表現したものだということを認識するのは不可能に近い。ただ聴感上の感覚として、物悲しく美しい旋律だということだけが情報として単純に認識できる唯一のことだ。それは人間の耳と脳の構造上、悲しく聞こえる旋律と陽気に聞こえる旋律は決まっていることが影響しているので、人類共通の感覚だと言える。逆にいうと、象を知らない者が象の絵を見たときに象と認識できないが、音楽においては悲しみや喜びはほとんど人類共通のものとして認識可能なのだ。絵画と音楽は比べれば比べるほど興味深い。

以前も書いた気がするが今一度、音楽の印象派と絵画の印象派について。絵画の印象派は、それまでのリアルな現実を描く手法から、点描などの技法を使いより抽象的な表現をしようとした運動である。それに対して、音楽の印象派は、これまで具体的な何かを表現し得なかった音楽において具体的なものをテーマにして作曲されている。これらは全く正反対の性質を持ちながら、鑑賞する際に何か共通したものを感じ取れるのも事実だ。音楽と絵画の現実性と超現実性や具体性および抽象性は真逆のものであるのかもしれない。例として著者が挙げていたのが、狂人の描く絵は破滅的で抽象的な現代美術の様相をしているが、狂人の歌うメロディは美しく、簡潔なものだという対比である。絵画と音楽は鏡を挟んだ兄弟であり、向こうが右手を上げるとこちらが左手を上げるという具合になっているのかもしれない。

これについて詳しく書くと長くなりそうなので……という決まり文句で僕は内容の記述を放棄する。

音楽について知ることにより、どんどん音楽を知ることから遠ざかっている気持ちがする。それは、「自分が何も知らない」ということを知るからだ。その感覚は実はとても気持ちいい。

明日も雨が降る。暖かい雨だといい。


5月20日(水)

まばらな雨は少し僕の心を落ち着ける。そこに苛立ちや焦りはない。暖かい雨に振られることで不安が取り除かれる。雨だったから向日葵のブーケを妻に買っていった。向日葵は太陽みたいに見えるし、雨の日の向日葵はゴッホの絵のように、僕らの眼のレンズに映り込む。パリのカフェで、雨上がりのテラス席で彼らは談笑しアイデアを得る。小説家たちは周りの会話に耳を澄ませてアイデアを掴み取る。広い世界と狭い世界のどちらにもアイデアは存在している。釣り糸を垂らす意思があれば何かを釣ってくることができるだろう。

ツイッターで糸を垂らしてみたり、ユーチューブで糸を垂らしてみたりして何かを掴もうとするけれど、重要な何かが引っかかってくることは滅多にない。折れた枝だったり、雑音、ノイズが脳に蓄積されていくだけだ。それらのノイズだって、街に出れば一日中無意味なBGMを聴かされている我々には慣れっこかもしれない。鉄道の途轍もないノイズが、目が覚めたら走り始め、夜眠るまで続いていく。本来の環境音を取り戻したくなって、川のせせらぎの音をセラピー用途で流しながら濃いコーヒーをすする。目の前に先が見えないほど長く続く川が横たわる。よっこらせと河原に腰を落ち着けて、釣り糸に餌をつけてやる。ミミズのふりをしたプラスチックの塊だ。それで、ひょいとそれを投げてみる。何かが蠢いているのがわかるが、時期に気づく。それは僕の“エゴ”であり暗闇の中では結局何も見ることはできないと。だから、とりあえず闇鍋の要領で煮て、食っていく。そうすることでしか、僕らは自分自身のことを理解することすらできないのだ。
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鬼太鼓座(おんでこざ)の『富嶽百景』というアルバムを聞いている。オン・デ・コザ。調べてみると、フンドシで太鼓を叩くという、我々がいの一番に思い浮かべるであろう和太鼓イメージは彼らによって作られたものだということ。彼らがサントリーのCMに出演が決まった際に発案されて、それが和太鼓そのもののイメージとして定着したのだ。

現代音楽的な手法を取り入れているということらしいが、和太鼓の響きっていうのはどこまでいってもすごく和太鼓だ。その音は原始的なものを感じさせるが、アフリカンなものともスパニッシュなものともラテンとも全く違うリズム感で、それが面白い。それはある種とてもニュートラルなリズムに聞こえる。いや、リズム自体が存在していないかのようだ。和太鼓の音は複数の音の羅列でリズムを作っているのではなく、一つの音が単独でリズムを有しているようなものだと感じる。我々が和太鼓の音を耳にする一番ありふれた機会といえばお祭りであり、太鼓の音は祭りのために機能している、いわば実用音楽の一種である。

太鼓の音で祭りが行われていること、そしてその場所を人々に知らせることができる。踊りのための拍子の合図としても機能する。大きな太鼓であるがゆえに、汗を流しながら太鼓をたたく人の姿を見ると、我々は体温が上がり、少し現実離れした気分になる。これらの効用はスピーカーから聞いても尚、感じることができる。僕にとって音楽が生活と一体になり、意味を持った最初の音楽である。しかしながら音の響きには不安なものがあり、その音量ゆえに気分の高揚と不安の増大を同時に体験し、しばしトランスする。リズムはあってないようなもの。我々はそれを元に体を縦に、あるいは横に揺らすなんてことはしない。うちわで顔を仰ぎながら、林檎飴や焼きそばを反社会勢力の出している出店で買ってきて頬張る。

和太鼓を聴くことでそれらのイメージは自然に脳内に発現し、パブロフの犬的に僕は浴衣をきて焼きそばを食べたり、林檎飴を舐めたりしたくなる。この欲求を満たすには夏まで待たないといけないが、生来のせっかちである僕は待ちきれなくなってしまう。渋谷のクラブなんかで、毎晩クラシックな“祭り”をやってくれたら僕は毎晩、林檎飴を舐めにいくのだが。そのためにはコロナ収束も必要なのだが。僕はせめてもの慰めとして、フンドシと太鼓をアマゾンで注文して和の“こころ”を満たす。自粛で自宅でフンドシはオッケーでも、和太鼓は音量がアウトでしょと思われるかもしれない。しかし密ではない公園で、フンドシで和太鼓を叩けばバッチリだ。

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雨を舐めてみたら甘くて塩辛かった。


5月21日(木)

日記を書き始めてからもう一ヶ月以上になる。日記を夜の決まった時間に書くことは僕の生活の一部になり、そのために時間を調整するようにすらなった。自分の中から言葉を絞り出すことは案外体力を使うものだ。しかし同時に何かを得られるものでもある。文章を書くことは必ずしも自分の意思で行われるものではなく、何か自分自身以外のものが関係をしている。カール・グスタフ・ユングの言うところの集合的無意識の領域から僕の意識を通って出てくるものだからだ。文章を書いて、しばらく経ってからそれを見返すと自分自身が書いたものとは思えないことがある。それは自分の意識できる自我の部分を超えた、集合的無意識のおかげだと考える。それは多くの預言者たちが預言の言葉を掴み取ってきた領域でもあるかもしれない。

とはいえ、実際にはこの文章は5月22日に書かれたものであり、毎日文章を書くというルーティンすらも打ち破る高度な眠気に突如21時ぐらいに襲われ、風呂にも入らず、歯も磨かず寝てしまったせいだ。僕は12時間近く眠り込んでいた。僕の隣では妻も12時間眠り続けていた。ある夢を見た。何か必要にかられて、新幹線に乗ってどこかへ向かう夢だ。その新幹線はほんの5分ほどで僕を東京ディズニーランドへ連れて行った。東京ディズニーランドは休館中だったし、それを夢の中の僕もわかっていたため、がっかりしたりしなかった。しかし、その休館中のディズニーランドへ行くことに大きな意義があったはずなのだ。

普段であればきらびやかな明かりがあらゆる乗り物や建物を照らし出しているその遊園地は、全くの明かりもついておらず、静かなままで、入り口の改札のような場所にはチェーンがかけられていて、全く入ることができなかった。周りに人影はあったが、誰も彼もが、ディズニーランドを目当てにしているわけではなく、仕事からの帰宅途中で、乗り換えのために駅に降りたっただけだった。皆が忙しそうな足取りで駅の改札から改札へと向かう中で、僕は立ち尽くして、もしくは棒立ちになっているのを怪しまれないように、少しうろちょろしながら、ここへ来た理由はついには思い出せなかった。指標は目標でなく、目標なき指標には意味がないのだ。閉館中のディズニーランドという指標が何を表しているのか、わかるには相当な時間が必要とされているようだった。僕は立ち尽くし、帰りの電車に乗ろうとしたところで、目覚ましのアラームがなり、それを一時間後にセットし直して、欲望に塗れた二度寝へと足を踏み入れた。


続く

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執筆者:Naoya Takakuwa / ナオヤ・タカクワ

1992年生まれ、石川県出身。東京を拠点に活動するミュージシャン、作曲家。前身バンド、 Batman Winksとしての活動を経て、2017年、 ソロ名義での活動を開始。2018年にアルバムLP『Prologue』をde.ta.ri.o.ra.tionより発表。現在は即興演奏を中心に活動中。2019年には葛飾北斎からインスパイアされた即興ジャズ7曲入りCDーR『印象 / Impression』付きの書籍『バナナ・コーストで何が釣れるか』がDeterio Liberより刊行された。

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