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ナオヤ・タカクワの日記         2020.06.26-07.02


6月26日(金)

家に帰ると妻が椅子を運んでくる最中だった。ダンボール箱に入って、河川敷に捨てられていたのを拾ってきたのだ。それは少しベタついていて僕たちは困惑した。それでも部屋に合っていた。何十年も前からそこにあるような面持ちで、椅子は我々の部屋の一部を占めていた。彼は何か話しかけてほしそうだったが、話しかけるとそっぽを向いた。まだ野性が残っているのだ。僕らはそいつを「ジョセフ」と名付けた。僕らの初めての子だ。まあ、少なくとも子供のようなものだった。

ミルクを与えようと思ったが、牛乳は置いていないし僕らは母乳が出ない。念の為、妻にも母乳は出ないか訊いてみたが出ないとのこと。仕方がないので、明日の朝飲むはずだったプロテインのココア味を与えた。ジョセフはそれを美味そうにぴちゃぴちゃと舐めていた。僕らはその隣で、妻が用意したチキンステーキを食べた。ジョセフが眠るのを見守ってから僕と妻は会議を開いた。

「あの椅子、どうするんだ?」

「どうするって飼うに決まってるわよ」

「飼うって言っても、あのままじゃ置いとけないぞ。病原菌なんか、持ってるかもしれないだろ?」

「明日落ち着いたらお風呂に入れてやるわよ。わたしがやるんだからいいでしょ?」

「構わないけど、子供を作るかもしれないぞ」

「部屋から出さなければ大丈夫よ」

「大丈夫ったって、去勢はしなきゃだめだぞ。去勢は絶対だ。明日動物病院に連れて行くんだな」

土曜日でもやっている動物病院を探しにかかった。電話帳の最後のページに載っていた、「ワキタ動物びよういん」に連れて行くことにした(僕らはスマートフォンやインターネットのような過去の遺物は持たない主義なのだ。僕たちは半径100キロ圏内の住宅の中で間違いなく一番分厚い電話帳を持っていて、大抵のことは電話帳を繰れば事足りるのだ。)

「びょういん」ではなく、「びよういん」となっていた。印字ミスだろう。だが万が一美容院だったとしてもなんとかなるだろう。


6月27日(土)

帰ってくるなり妻と大げんかをした。小さな僕らの部屋は打ち震えた。窓は割れ、本棚は倒れ、腕に傷を負い、食器が全部バラバラになってしまうように思えた。そんなことはなかったが、同じようなものだった。

僕が喧嘩の中で気に入っていることが一つある。普段我々はキッチンの換気扇の下を喫煙所にしているが、喧嘩をしている時には、妻は食卓やベッドの上やトイレの中で煙草を吸うのだ。僕は彼女の吐き出した煙を吸うのだ。一種の儀式であり、何かへの葬いだ。部屋は燻され浄化される。汚すことと浄化することは本質的には同じことなのだ。

僕が部屋に脱いだ服を置きっぱなしにしたり、わざとゴミを捨てるのを忘れたり、机の周りを掃除しないのはそのためだ。


6月28日(日)

夜。僕は性欲をみなぎらせていた。隣には妻が眠っていた。トイレに立って、自慰をしようと思った。

ウイスキー・ソーダを作ってトイレに持って行った。うちのトイレは狭すぎた。僕は結局ウイスキー・ソーダを入れたグラスを下半身が裸のままで飲みながら煙草を吸った。トイレの窓からは隣の部屋が丸見えだった。ズボンを上まであげたあと、少しそれを見物してからトイレから出た。

名も無い意識が名も無いまま流れ出して行く。それは形を作らずにしばらく空中を漂ったあと、元あった場所に戻って行くのだ。それを眺めていると少しだけ安らかになり、少しだけ不安になり、少しだけ天国と地獄に近づく。


6月29日(月)

新しい靴を履いて仕事に行った。僕の足の小指は締め付けられて、中国の纏足を思い出した。通勤途中に並木道がある。長い坂道。帰りには延々とこれを登らされる。その木々の中の一つからミミズが落ちてきて、新しい靴の上に落ちた。それはとっくに死んでいた。僕はそれに気づかず駅へ向かってしまった。

電車の中で、僕は一人になった。馬鹿でかいミミズが靴の上に乗っていたからだ。おまけにネズミ達も寄ってきた。久しぶりに朝の電車で半径2メートルの社会的距離を保つことに成功したのだ。このようにして見えない壁を作るやり方を僕は学んだ。明日は生きた蛸を頭の上に乗せて出勤することにしよう。


6月30日(火)

纏足は続いている。僕の足は少し象の足に近づいた。象の隣に立つとひび割れた肌が見えた。彼は常に涙を目にためていた。

「やあ、君はどこからきたんだい?」

話しかけたところで、象はこちらを見向きもしない。巨大な耳の穴に垢が大量に詰まっているのだ。綿棒を一箱束にして掃除してやる必要がある。

耳の穴を掃除していると、何か薄暗く赤くひかるものが見えてきた。それは膿んでいて耳の中を汚臭で満たしていた。

「やあ、こんちは。君はどこからきたんだい?」

今度は答えてくれた。象の代わりに大きな耳くそが。彼は火星の裏側にある集落で生まれたという。彼の故郷について語ってくれた。その場所で彼は工場で仕事をしていたのだという。

「毎日、毎日苦しかったよ」

と象の大きな耳くそが語った。

「毎朝5時半に起きるとね、朝ごはんが出てくる。日替わりの温かい朝食。それはある日は靴裏のゴム。ある日は中身の少し残った歯磨きチューブ。またある日は少女の髪の毛の束。泥の塊が朝食の時もある――それは絶品なんだ」

耳くそは満足げに語った。だがやがて肩を落とした。

「朝食は良かったな。だけどそのうち労働が始まる。それはきつくて辛かった。皆泣き出しそうだった。一人残らず資本家に借金をしていた。借金を返すために働いているが、働けば働くほど借金が増えて行くんだ」

耳くそは途中でショートホープに火をつけた。

「プフー……しかしだな、おいらはそこまで馬鹿じゃあなかったよ。借金を増やしつつ、その生活から抜け出す方法を考えていたんだ。それで、はるばるこの地球までやってきたってわけ。なかなかここは居心地がいいよ。まあ、耳の穴から出ることはできないんだけどね。それも悪くない」


7月1日(水)

昨晩、蔦屋書店であちこち探し回ったあげくギンズバーグの本を買った。ケルアックやバロウズと友達なのがいい。僕の友人はケルアックやバロウズであるし、僕はギンズバーグかもしれない。朝のコーヒーを、熱いのを、2リットル飲みながらテレビの電源を入れた。

今夜の降水確率は90%だと、朝の番組で伝えられていた。僕は傘を持って出かけるのを忘れないように、入念にメモを取った。「傘を持って行くこと。」出かける間際に、楽器を乗せたカートに傘を差し込んでおくのを忘れなかった。僕は慎重な男だ。すでに4本もあるビニール傘を出先で買ってきて、増やすわけにはいかなかった。降水確率は90%。

雨は僕が外に出ると、たちまち止んだ。駅に向かうときも。用事を終えて外に出たときも。家へ帰ろうというときも。

僕の前を歩く人は傘を差していても僕は差さなかった。僕のところだけ雨が降らないのだ。数メートル先には降っているのに。あるいは僕に幻の雨の匂いと音と光が見えただけかもしれない。それで前を歩くその女子学生たちもある種の幻影を見たおかげで傘を差していただけかもしれない。もちろん、幻影は現実を逆さにしたときに降ってくるやつで、それはもちろん現実の一部なのだ。それを故郷の、実家から50メートル歩いたとろにある川に、足を蹴つまずいて、水深10センチメートルの水に頭を突っ込んで水死した老いた男が言っていた。僕を大きな駐車場の小さな隅っこに連れ出して、生のトウモロコシを食べるように言い、皮を剥いて渡してきた。僕はむしゃむしゃととてつもなくまずいトウモロコシを齧りながら、真理に気づいたのである。我らが神はアルコール中毒の老人。現実を逆さにして、真実を知るべし――。地球を逆さにしたら、土砂降りの雨が宇宙に降り注ぐ。

しかし降水確率が90%の日には土砂降りになってもらわないとね。だってせっかく入念に用意した渾身の会話の種子が、友人と会う約束がドタキャンされて行き場を失ったみたいになるじゃあないか。


7月2日(木)

今日は二連休の2日目ときている。

起きて、歯を磨く前にウイスキーをソーダで割っておいた。昨日買ったギンズバーグの詩集もキッチンテーブルの上に用意した。外の気温は30度をとっくに超えていた。試しに窓を開けてみたが、熱風が押し寄せてきたのでやめておいた。皆、半袖シャツを更に上までまくり、それでも汗まみれになってうちの前の坂道を登っていった。学生服を着た6歳から12歳ぐらいまでの子供が列を成して、僕の住むアパートメント前の坂道を登って行く。彼らはどこに向かっているのだろうか。それが少なくとも教場ではないことを祈った。

ギンズバーグは5分ぐらいで読み終わってしまった。それは中身のない読み物に思えたが、100万部以上売れていた。ギンズバーグより旧約聖書の方が売りやすいように思えた。実際に聖書の方が売れているのだ。宇多田ヒカルより。ニルヴァーナより。僕は聖書を売り歩くことを仕事にしようと思った。だけど僕にとっての聖書はフロイトとユングだ。コンピュータを使って、フロイトを150冊とユングを100冊注文しておいた。注文した後で気づいたが、フロイトとユングは聖書より売りにくく思えた。僕は朝っぱらから疲弊してしまった。

それからの時間は荷物が届くのを待つためのくだらない時間になった。計250冊のガラクタが家に届くまで、僕は家を留守にできなかった。何より暑かった。洗濯をしようと思ったが、洗濯物を干している間に荷物が届くかもしれない。シャワーを浴びようと思ったが、浴室にいる間に荷物が届いたらとんでもない。

僕は無の時間を消化するため、続き物のテレビドラマを8話分見た。8話分見るともう夜も更けていた。更に8話分見ると夜が明けていた。荷物はとうとう届かなかった。行き場を失った250冊の本たち。彼らはどこへ向かったのだろう。少なくとも教場ではないことを祈る。少なくとも僕のアパートメントではないことを祈る。


続く

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執筆者:Naoya Takakuwa / ナオヤ・タカクワ

1992年生まれ、石川県出身。東京を拠点に活動するミュージシャン、作曲家。前身バンド、 Batman Winksとしての活動を経て、2017年、 ソロ名義での活動を開始。2018年にアルバムLP『Prologue』をde.ta.ri.o.ra.tionより発表。現在は即興演奏を中心に活動中。2019年には葛飾北斎からインスパイアされた即興ジャズ7曲入りCDーR『印象 / Impression』付きの書籍『バナナ・コーストで何が釣れるか』がDeterio Liberより刊行された。

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