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MAGAZINE

ナオヤ・タカクワの日記〜 2020.08.28-09.17


「音楽家ナオヤ・タカクワによる日常の批評的分析」

8月28日(金)

ろんなものを食べたり飲んだりしてから帰って、あまり眠れなくて、翌朝はそれはそれは眠かった。


8月29日(土)

つだけ自慢をさせてほしいと思う。自慢というものがいかに無益で人々をやれやれという気分にさせるということは十も承知だ。それでもやはり自慢したいと思ってしまうのは人間という生き物の性なのかもしれないし、そんなことはないのかもしれない。今までに一回も自慢をしたことがないという人がいたら、出てきてほしい。まあ、出てくれば、「今までに一回も自慢したことがない」という自慢を背負うことになるのだが。それでもよければ。

そして、今日僕が自慢しようとしたことはブックオフに関わる物事である。僕は以前から言及しているようにブックオフファンである。用があってもなくても、週に一度はブックオフへ向かう。それによって満たされる「何か」があるのである。例えるなら、ディズニーランドへ行く気分に似ている。ディズニーランドに入ってしまえば、何も乗り物に乗らなくとも、ディズニーランド的快楽を得ることができるのだ。そしてその快楽はミニーマウスの耳の形をしたカチューシャを頭につけることで10倍になることはよく知られている。それと同じように、僕もブックオフで何かを買えば快楽が10倍に膨れ上がるのだ。

18時までヘトヘトになるまで仕事をした後だというのに、ブックオフへ向かったのには理由がある。毎29日はアプリでブックオフのお気に入り店舗登録者限定で300円の割引クーポンがもらえる。今日がそのクーポンの発行日だったのだ。

僕は財布に3万円を突っ込み、ブックオフへ行った。そこで、DVDコーナーを物色し始めた。いくつかのDVDが目に留まる。例えばゴダールの『ウラジミールとローザ』。それらの魅力的な品を無視しながら僕が購入したのはウディ・アレンの『ブロードウェイのダニー・ローズ』のDVD。アマゾンで5千円以上の高値で取引されている品を安く手に入れることができた。

僕はミニーマウスのカチューシャを手に入れた気持ちで家に帰った。


8月30日(日)

さは日に日に増していくようだ。コカコーラとホットドッグを買った。これで少しバカンス気分になれる。コカコーラとホットドッグの組み合わせはそのジャンク感、油分と水分のバランス、塩分と甘みのバランス全てにおいて高濃度のマッチングを誇っている。コロナ禍と暑さのマッチングにより、僕は部屋から出なくなる。部屋から出ないことのジャンク感もまた素晴らしい。


9月2日(水)

日も暑い日である。もう9月に入ったというのに、全く衰える気配がない。このまま行くと、人間は室内でしか生活できなくなってしまうのではないかとさえ思う。すでに僕はそれに近い体になってしまっている。そしておそらく多くの人々がそうなっているだろう。タクシーが今の20分の1ほどの値段になれば、少し移動しやすくなるのだけど。

それでも、僕は今日、片道1時間をかけて東京駅へと向かう。今日に限って、70年代風のTシャツを着てきてしまったが、これは間違いで、東京駅にこれほどそぐわない格好もあまりない(全ての人間がクールビズスタイルのシャツを着ていて、唯一の例外が僕と二人組の美大生だった。美大生は許されるが、僕は許されないだろう)

ある種の展示をやっているのを見にきたのだ。何しろ、インターネットで予約をしてしまったから、行かないわけには行かなかった。外に出るのがとても億劫な時期だから本当は家の中にいたかったのだ。僕が外に出たくない理由を書こうとするととても長くなりそうなのでやめておく。簡単に言うと日本と言う国の未来を案じているためである。その不安が僕の精神をよろしくない方向に刺激する、チクチクと。またコロナ禍であるがゆえに生じるストレスがある。他人との距離2メートル以内に足を踏み入れた途端、それは爆発する。電車のつり革に触った時も、エスカレーターの手すりに手をおいてしまったときもだ。それに、隣の席に座った人がくしゃみをしたとき。僕はそれを咎めようというつもりはないのだが、ついついその人の顔をにらみつけてしまう。つまりガン飛ばすわけだ。

ガン飛ばす人間などは、大した人間ではないというのが僕の信条だ。そして自分がガン飛ばしたとき、自分自身が嫌っている人物像の特徴カテゴリの内部に僕は包括されてしまう。自分が嫌いなものの中に自分自身が含まれてしまうと、そのほかに信じられるものはカリカリに焼けたハンバーガーのパティぐらいしかない。つまり、自我の代替物として、ハンバーガーのパティが僕の自我や超自我の中にどっかと居座ってしまうのだ。肉の塊が、いつも自分が座るはずのワークデスクを陣取って、我が物顔で書類の整理をしていたらいい気はしないだろう。しかもその肉塊が自分より優秀であればなおさらである。

ところで、コロナの影響のため、ギャラリーは全て予約制となっていた。予約方式は大歓迎だ。何しろ、美術館にやたらと人が溢れているのを見るのが嫌いであるし、その上それらの客層はほとんどが還暦を過ぎた男女であり、そんなところに一人で突っ立っていると何か場違いな気がしてくるのだ。展示物を見ていると、その内に誰かに声をかけられて、部屋を追い出されないかと心配になってくる。

監視員はやたらとこっちの方をチラチラと見てくるし、僕の左後ろには必ず物言いたげなオバさんが立っているのだ(彼女たちは実際に何かを言ってきたことはない)。そして、僕が展示品を盗むとは思ってないにしろ、会場に置かれているアロマ付きの加湿器や備え付けの消火器や、ドアノブを盗もうとしているのではないかと疑っているのだ。彼らの視点は前時代的だという他ない。なぜなら、すでにドアノブなどというものは時代遅れで、我々はノブに手をかけずとも、センサーの働きにより大抵のドアは自動で開くことのできる仕組みになっているからだ。それでも彼らは僕がドアノブを盗まないかチェックしているのだ。そのドアノブは彼らの頭の中だけにしか存在していないというのに(もしくは僕の頭の中だけに存在していないのかもしれないが、これ以上考えると疑心暗鬼になり不眠症を患いそうなのでやめておく)。

とにかくそういうのも含めて楽しむというのが僕のモットーである。むしろ、美術館なんかに行くときの醍醐味じゃないか。もし、核融合によって生まれた巨大生物が目からビームを出しながら、我々のいる部屋を覗いてきたとしても、なんとか楽しもうとするに違いない。そのような状況で何か楽しめることがあるとすればだが。


9月15日(火)

しぶりの日記をしたためるためにコンピュータへ向かうことにした。書くべきことは沢山存在しているようでもあり、何一つないような気もする。そして、書いたところでこの文章が誰かの慰めになるかどうかということもわからないのだ。少なくとも、ただ一つ言えることは、何一つ正しいことなど存在しない世界の中で正しいことを言おうとするのは間違いだということだ。そして勿論、正しいことを言っているつもりになるのも間違いである。これらの間違いは多くのインターネット・ユーザーが陥っている罠であり、全ての者たちはこの原理によって間違ったことしか発信していないのだ。そしてこの文章も勿論、先ほど述べた定義によって大いに間違っている。僕が他の人々より少しマシな部分があるとすれば、それは自分の言説が全て間違っているとわかっていることだ。

こうして、人は大人になっていく。大人になるというのは自身の間違っている点を、間違っていると理解しながらそれでいて間違ったことを発信し続けることだ。そして勿論大人であるというのは大いに哀れなことであある。

僕が一つだけ正しいと思えるのは自分の欲望である。欲望に従うことでしか生きることはコントロールできない。それでも同時に欲望をコントロールすることが重要であり、そうでなければ人間社会を生き抜くことは不可能であるからだ。

1. 生き物は欲望に全て従うことで満足のいく人生を送ることができる。
2. 人間社会では、欲望をコントロールすることでしか生きていくことはできない。
3. つまり、人間社会で満足に生きていくことは不可能である。

これらのことを何一つのエビデンスもなしにただ掲示するというのは大変無責任なことであるのは重々承知であるが、無責任ということでいうとこの国の法律であれ、社会や学校のシステムであれ同じことである。つまり僕は「ただ人間らしく全うに生きようとしているだけなのだ」ということも可能である。

いかに無責任が市民を鎮圧しようとしているかを見れば、それは自明である。

さて、この中身の全くない瑣末な文章を少しでも読む暇があれば、他の何か有意義なことに時間を使えたかもしれないとあなたは思うだろう。それでもよく考えてほしいが、「他の何か有意義なこと」なんてどこかに存在しているのだろうか。

僕は少なくともある種の欲望を鎮圧し、ある種の欲望にしたがってこの文章を書くことになった。これにはあらゆる種類の欲望が関係しているし、その図を描こうとすれば半日かかるだろう。一人の人間がこうして何か書くという行為を「覗き見」するような感覚、思考経路を透視図法を使って見透かすようなやり方で、そこにリアリティを生じさせ、少しでも同化・同調することができたのならそれはあなたの勝利であり、僕の勝利でもある。このゲームの優れている部分は敗者がどこにもいないことだ。


9月16日(水)

る種類の切迫した目的のために表参道へ向かった。表参道ではそのつもりがなくとも様々なブランドショップの店内が見える。バーバリーの路面店では、新しいブランド・イメージとして6匹のピンク色のサルと2頭のピンク色のゴリラがそれぞれ奇妙なポーズを取らされて鎮座していた。バーバリーほどピンクのゴリラ的イメージが見合わなそうなブランドもないが、バーバリーとピンクのゴリラのミスマッチ感は何らかの興奮を生み出していた。卑猥なピンクの中に散りばめられたバーバリー的チェック柄はそれ自体もセクシュアルな響きを得ていた。チェック柄の持つ構造的美学は時に性的興奮をもたらすのは、幾何学的構造に性的な興奮を感じる数学フェティシズム、機械フェティシズム、SF映画マニア等に通ずる部分があると思われる。格子柄は監獄を思わせるし、それはマゾヒズム的欲求、束縛願望、システムに内包される喜びであり、SM趣味になるとM側でさえその過剰な欲求が攻撃的で奇怪なものに見えがちだけれど、何かに内包されることはすなわち外敵から身を守ることにつながるのであり、精神の安定や身の安全を求める欲望がハードな形で表出してしまったものだろう。

バーバリーの格子柄は、我々がコロナ禍において今もなお見えざる監獄に閉じ込められていることの隠喩として僕の中に響いた。僕の中のピンクゴリラは監獄から出たがっているのか、それとも閉じ込められたがっているのか。それを今日中に判断するのは早急すぎる気がする。少なくとも、1ヶ月の間、ピンクゴリラとの対話を続けたのちにその答えを出した方が良さそうだ。だいたい、欲望はその性格上、コロコロと正反対の方向へその日の気分によって転がったりしていくものだ。


9月17日(木)

ーグルを食べながら、ジャズをイヤホンで流しながら、ウディ・アレンの短編小説を読んで地下鉄に乗ったらニューヨークにいる気分になった。



続く

前回までの日記


執筆者:Naoya Takakuwa / ナオヤ・タカクワ

1992年生まれ、石川県出身。東京を拠点に活動するミュージシャン、作曲家。前身バンド、 Batman Winksとしての活動を経て、2017年、 ソロ名義での活動を開始。2018年にアルバムLP『Prologue』をde.ta.ri.o.ra.tionより発表。現在は即興演奏を中心に活動中。2019年には葛飾北斎からインスパイアされた即興ジャズ7曲入りCDーR『印象 / Impression』付きの書籍『バナナ・コーストで何が釣れるか』がDeterio Liberより刊行された。

©de.te.ri.o.ra.tion