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MAGAZINE

新連載・音楽家ナオヤ・タカクワによる日常の批評的分析〜第一回


「カミュの『ペスト』、2020年のコロナ」



このコラムのようなものを書くにあたって、僕は急いで一つの本を読み終わらせた。その理由の一つには、何かの本を読んでいる最中は他の何かに集中することができない、というものがある。もう一つの理由は、その書物が何かを書くためのエンジンとして駆動してくれることを期待したからだ。

カミュの『ペスト』を読み始めた理由はくだらないものである。COVID-19が日本にも上陸し、ある程度の人数を感染させたあとのことだ。僕は何か読むためのものを探していたが、そのときに「読みたい本リスト」に追加されたのだった。それというのも世のいわゆるインテリ的層によって、「コロナ禍の今だからこそ読むべき本!」などと喧伝されているその文句にまんまと釣られたのである。

そもそもこうした文句に惹かれる性癖は、約四年半分の一般教育の放棄により生じた知識の欠如を必死で補おうとする、ビート板を使ってばた足する足掻きとして僕の中に鎮座している悪しき習性なのだ。それが宇宙のように果てしなく続き、また宇宙の真理のように、永遠に手に入らない個人的な戦いの勝利であると同時に、このようにして目に見える形で具現化されること(つまりこの文章のことだ)、それは昨晩見た悪夢が現実として押し寄せてきた時に感じる「あれは予知夢だったのだ」という神秘的輝きに近いかもしれない。もしくは、洪水の夢を見たあとにおねしょをしたことに気づく、そのあとの恥辱感と気まずさとの方が似ているかもしれない。

それからもう一つ、なぜ今頃『ペスト』を読むのかといった疑問が読者諸君の中で、地球温暖化による海面上昇のごとく持ち上がってくることは想像に難くない。それに律儀に答えるなら、僕の一つの「くせ」のせいであり、それはいつでも流行を避けようとするがゆえに、一足遅れて流行ものを摂取するというものだ。おかげで今年に入ってやっと稀代の名作である『シン・ゴジラ』を観る羽目になったし、四年前の劇場ではなく、今年に『シン・ゴジラ』を観るということは、誰とも新鮮な興奮を分かち合うことができないということを意味した。僕は部屋でひとりきりで興奮をどこにも向けることができず、それはひとかたまりのメランコリとして残った。同じことが『ペスト』を読むことによって起ころうとしていたが、このコラムをメランコリの封じ込めのために利用することによって回避された。システムの私的利用は排除される世論だが、明白に私的利用を公言することによっていくらか、組織としての僕個人の透明性は保たれるであろう。

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『ペスト』を読み始めて一番最初に感じたのは「普通」すぎるということである。

得体の知れないものに襲撃される恐怖と人間社会の動きが描かれている『ペスト』は発刊当時、フランス領アルジェリア生まれの神童カミュによる天才的な不条理のストーリーテリングによって瞬く間に世界中でベストセラーとなった。もちろん、そのためには奇異であることが必要だし、衝撃や興奮が必要だし、驚くに値することが書かれている必要があるし、新鮮さがなければいけない。いくら特別なストーリーテリングの才能があっても、ストーリー自体が興味をそそるものでなければ誰も聞こうとはしない。

しかしながら、僕の目にはそのストーリーが「普通」なものとしか映らなかった。つまり、奇異でもなければ、衝撃や興奮もなければ、驚くに値することも書かれていなければ、新鮮さもなかったのだ。それどころか「不条理の哲学」と呼ばれるカミュの文章の中に不条理を感じ取ることすら難しかった。「現実は小説より奇なり」と言うが、我々の実際の生活においての方が不条理さが際立っていることにより、小説内の不条理は僕の中で真っ当な不条理としては処理されなかった。

物語の中で起きていることは、プラスチックゴミは燃えるゴミか燃えないゴミかの選択において、まあうちの地域では燃えるゴミだよねというような、曖昧なイメージであり、出がらしのカスを再利用して淹れたコーヒーのように、それがコーヒーと呼べるかどうか定かではないものであった。『ペスト』で語られる筋書きは、我々のようなウイルスからの襲撃を経験した(もしくは経験中である)2020年以降の人間にとってはごく普通の光景に過ぎないのである。

ペストが街を襲ってきて街を封鎖――ロックダウンする様子も「普通」のこととして僕の目には映る。COVID-19の発生・感染拡大以後、日本では街を封鎖する意味でのロックダウンは行われなかったとはいえ、中国の武漢では強烈な形で実践されていたし、国単位での移動の禁止は長らく働いていた。飛行機はほとんどがストップされ、国から国へと移動してきた者は、帰国者にしろ一定期間の隔離が行われた。

それに加えて、小説内ではペストが襲ってきて街が隔離されて以来、街の人々がカフェや映画館へ出かける様子が描かれている。カフェや映画館が暇を持て余した人々で満員になっているのだ。ソーシャル・ディスタンスはどうしたんだと文句を言いたくなる。『ペスト』内の人物たちの実践している感染症対策は「普通」以下なのだ。

これらを「普通」だと感じること自体が、最も恐ろしいことであるのは言うまでもない。恐怖を恐怖と感じなくなったとき、それは慣れが引き起こす麻痺であり、不感症の一つの形だ。

睡眠薬を毎日飲むと、睡眠薬を飲んでも眠れなくなるように、我々の生物学的身体構造は環境に合わせてゆっくりとカメレオンのように同調していく。睡眠薬を飲んでいる状態が「普通」の状態になり、やがて睡眠薬を飲んでも眠れなくなってしまう。それが原因で、睡眠薬を摂る量が徐々に増えていくのと同じように、我々も危険や恐怖の存在している状況にカメレオン的同調をしていて、ちょっとやそっとのことでは驚かなくなった、とも言える。

マスクで顔を覆って出かけることも、「普通」。
店へ入る前に手に消毒液を刷り込むことも、「普通」。
店へ入る前に額の温度を計られることも、「普通」。
室内の喫煙所が封鎖されていることも、「普通」。
人と握手をしないことも、「普通」。
レストランに入るときは必ずマスクをつけ、食事の時にはマスクを外してしまうことも、「普通」。
映画館で席が半分に減らされ、マスクの着用が必須であることも、「普通」。
リモートワークも、「普通」。
消毒液で拭ってから職場のパソコンを使うことも、「普通」。
週末は家で過ごすのも、「普通」。
電車がすいているのが普通だったが、また混んできた、これも「普通」。

これらに加えて、陰鬱な空気まで「普通」になってきた。

そして陰鬱な空気が「普通」になるということは、それが陰鬱だと感じないということだ。睡眠薬が効かなくなるというのは、睡眠薬が睡眠薬としての効果を失うということである。睡眠薬が睡眠薬としての効果を失ったとき、それはもうすでに睡眠薬ではないのだ。それと同じように、陰鬱も、それが「普通」になった時には、すでに陰鬱としての効果が失われており、もはやそれは陰鬱ではない。

それはドローン音楽のように我々の日常に染み込んでいる。それはスーパーマーケットの会計所で、飛沫よけのビニールの囲い越しに見る店員のマスク越しにも漂っている(僕はそのビニールのおかげで大きな声で、ポイントカードを持っていないことや煙草の銘柄を叫ぶようにしなければならない)。そして、例えばマスクをしていることも陰鬱だし、マスクをしていないことも陰鬱なのだ。我々は何かをするにしても何かをしないにしても、その背景には陰鬱があるのだ。

『ペスト』では感染症による架空の襲撃により、陰鬱な空気が「普通」になるということを描いている。彼らにとっての陰鬱の正体は家族との離別であり、ロックダウンにより外の世界と中の世界が分けられてしまうことが人々を苦しめた。

2020年のコロナで起こっていることは、中と外が隔てられることではない。むしろ、中も外もないまぜになった混濁した世界。全てが淡く黒ずんだヴェールで覆われているような状態。ランベールのように、外の世界に逃げようと試みることすらできない。我々には出るべき外の世界が存在していないからだ。

僕たちは誰もコロナから逃げ出すことはできない。世界中全てが、同じ船に乗り合わせた乗客なのだ。我々にできることは、船の中に毎日1センチメートルずつ、海水が溜まっていくのを見ながら、船がどこかにたどり着くか、沈没するのを待つことだけだ。一つ確かなことは、岸辺に上がったとしても靴に染み渡った海水の匂いは消えることがないということだ。濡れそぼった足は雑巾のような匂いを放ち、それはいくら念入りに石鹸で洗ったとしても残り続ける。


執筆者:Naoya Takakuwa / ナオヤ・タカクワ

1992年生まれ、石川県出身。東京を拠点に活動するミュージシャン、作曲家。前身バンド、 Batman Winksとしての活動を経て、2017年、 ソロ名義での活動を開始。2018年にアルバムLP『Prologue』をde.ta.ri.o.ra.tionより発表。現在は即興演奏を中心に活動中。2019年には葛飾北斎からインスパイアされた即興ジャズ7曲入りCDーR『印象 / Impression』付きの書籍『バナナ・コーストで何が釣れるか』がDeterio Liberより刊行された。

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