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「インドアなアウトサイダーのコロナ」音楽家ナオヤ・タカクワによる日常の批評的分析〜第五回



「インドアなアウトサイダーのコロナ」


とにかく毎日コーヒーを淹れることに勤しんでいる。コーヒーに含まれる苦味によって、この甘いコロナ禍の気分を中和しようとしているのかもしれない。何故コロナが甘いのかといえば、僕のように極度の自宅に対しての異常愛を持っている引きこもりインドア派にとって、自宅にこもる言い訳ができる極甘のスパイスがコロナによる自宅ごもり令であるからだ。現在のところリモートワークには対応していない古風な会社に所属しているため、毎日の通勤を途方もないような努力によりなんとか成し遂げているとはいえ、休日に家にいることの言い訳が簡単になった、という効果は絶大なものだったのだ。

僕の引きこもり癖は10代前半から始まる。中学校2年の夏休みから高校3年の年までほぼ完全な引きこもり生活を送ることになったし、その間あらゆる社会的組織に属することをしなかったため、ある種のアウトサイダーであったと言えると思う。「イン」ドア派の人間が「アウト」サイダーであるというのは皮肉を帯びた言葉遊びのように思えるが、この、「イン」と「アウト」の関係は壁の内側と外側をどこに規定するかというルール作りによって定められているという点で興味深い。そして、アウトサイダーとアウトローが同じ意味において、「アウト」している点も。

「壁」が丸い円を描いていて、その内側と外側というように分けるのであれば話はわかりやすいが、実はそうではないと思う。考え方の問題なのだ。天動説と地動説の違いのように、我々の目から見える範囲ではどちらも同じように機能するが、実はそうではないということがありうる。

「壁」は真っ直ぐに伸びた国境のようなものであり、ちょうどトランプがアメリカ・メキシコ間に建設しようとしていた壁に似ている。我々のうち多くの人間は壁の北側にいるし、少数の者が壁の南側にいると考えていい。つまり、北側から見た南側は「アウト」であるし、南側から見た北側は同じく「アウト」であるということが発生する。しかしながら世の中の一般的な視点というものはマジョリティにより規定され醸成されることを鑑みるに、結局のところ北側の人間が自分たちが「イン」であるとの主張を、民主主義的な多数決のシステムで規定してしまう。世界は正しいかどうかに限らず、多くの人間が票を投じた方が「正しい」と決められてしまう。我々アウトサイダーは、彼ら=インサイダーによりアウトサイダーのレッテルを貼られているに過ぎないのである。

ところで、この甘い甘いコロナをうまく享受している、僕よりハードな引きこもりに属する人種の者たちがいくらでもいるということは想像に難くない。彼らがどのようにコロナ禍を過ごしているのか、ということが僕の興味の向かう先であり、しかしハードな引きこもりたちは外になかなか出てこないため、コンタクトをとるのが非常に難しいという難点を持っている。そこで、僕はただ彼らの日常を軽く想像してみることで満足するしかない。彼らの優雅な日常を、そしてコロナ禍において彼らは水を得た魚のように泳ぎ回っているに違いないのだ。

誰もが自宅にこもることを余儀なくされたとき、引きこもり派の人間たちは、自宅から出ないという意味において他の人たちと完全にイーブンになる。そして自宅での楽しみ方、ストレス解消法、コミュニケーション不足による鬱症状への対処を全て会得しているのだ。彼らはコロナにより壁の内側へ「イン」したばかりか、その中でも能力の高い人間とみなされるようになるのだ。しかし元アウトサイダーたちは一概に幸福になれるとは言い難い。そこには、かつて敵とみなしていたインサイダーたちからインサイダーであると認められることのアンビバレンスや「アウト」であることにより獲得していた人格の放棄が伴うからだ。

「壁」はいろんなところに存在している。僕はいつでも壁の外側にいる気分でいる。壁の内側ほど居心地の悪いところはないからだ。壁の内側は、先に述べたこととは矛盾するようだが、円の中にいることを思い起こさせる。僕は壁の中から永遠に外には出られないような気になる。もちろん、壁の中には快適な暖房設備が整っているし、必要なときに洗濯機を回せるし、いつでもトイレに行ける。それでも、壁の外側で寒さに耐えたり、古い服を一枚ずっと着ていたり、トイレを探し続ける方がマシだ。むしろそれが心地いいとさえ感じてしまうのである。物理的に「イン」していることは圧倒的に「アウト」なのである。

「イン」であることが「アウト」ではなくなった結果、それが「イン」になる。というのがこの文章の結論であり、結局自分がどこにいるのかわからないような感覚に陥ってしまう、ということが、山奥で真夏の夜空を見渡した時に感じる吸い込まれるような感覚、上と下や左右がわからなくなってしまう感覚に非常によく似ているということは、山奥や空には壁など存在しないことと相まってさらに物事を複雑にする。何かについて考えることは、何かを無駄に複雑化してしまうことであり、シンプルの反対にあることにより、ミニマリズムによる粛清を受けることになるのではないかと半ば怯えながら、総理大臣が自身を「ガースー」と呼ぶ、この笑いに満ちた世界で、しかしながら決して笑わないというスキルをなんとか会得することが世界平和の反対、つまり世界がバラバラ、という状況を生むであろうことはわかっていてもそうすることがアウトサイダーにおける正義なのではないか? 世界平和という語にもはや居心地の悪さしか感じない人間にとっては。いや、とにかく言いたかったことは、コロナは甘過ぎて飲めたもんじゃないってこと。結局人生ってのはだな、少し酸っぱいくらいがちょうどいいってこと(この文章もかなり酸っぱい)


前回のコラム


執筆者:Naoya Takakuwa / ナオヤ・タカクワ

1992年生まれ、石川県出身。東京を拠点に活動するミュージシャン、作曲家。前身バンド、 Batman Winksとしての活動を経て、2017年、 ソロ名義での活動を開始。2018年にアルバムLP『Prologue』をde.ta.ri.o.ra.tionより発表。現在は即興演奏を中心に活動中。2019年には葛飾北斎からインスパイアされた即興ジャズ7曲入りCDーR『印象 / Impression』付きの書籍『バナナ・コーストで何が釣れるか』がDeterio Liberより刊行された。

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