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MAGAZINE

ナオヤ・タカクワの日記         2020.04.16-04.22

4月16日(木)

日記を書くことになったのは、久しぶりのアミさんからのメールに端を発する。やぶさかでない気分で僕は筆の代わりにコンピューターのキーに指を這わせる。僕は以前日記をつけていたことがあるが、それは一般的に日記と呼べるかは疑わしい代物だったが、それに倣って僕にとってもっともナチュラルな形で書いていくことにする。

コロナウイルスに侵された地上で、アートが持つ力はとてつもなく弱いのだと知る。まともに小説を読むこともできないし、音楽も聞けないし、映画を観ることもままならないし、美術を楽しむことも不可能なのだ。コロナウイルスはアートの脆弱性をコンピューター・ウイルスのように(勿論コンピューター・ウイルスの方がウイルスに似ているためその名がついたわけであるが、コンピューター・ウイルスをウイルスの比喩として使うことは皮肉なことだ)攻撃してくる。

そしてその有用性の限定性を一番知っていたのは金銭的に貧しい人たちであったと思うし、アートを楽しむことができるのはいつの時代だって身体的・精神的に余裕のある富裕層のみであったのだ。我々は少しのあいだ幻影を見ていたにすぎない。

それはライブハウスや図書館や美術館に行けないという意味では決してない。アートの持つ力自体の問題である。表現は自己の表出であり、それはいつだってエゴである。エゴを美味しく味わうことはあらゆる危機の中で不可能だ。腹が減ったときに食べるのはバスキアの絵でなく、パンの耳である。
僕は自分のやっている音楽の弱さを知るし、コルトレーンの弱さを知るし、ビートルズの弱さを知るし、モーツァルトの弱さを知るのだ。
すこし悲しいが、すこし嬉しい。これは偉大なる発見であるのだから。コロンブスがアメリカ大陸を見つけたように。

音楽が大衆のものになったのは、つまりポップ・ミュージックが生まれたのは産業革命が起きたからである。我々はたくさんのものを作り、たくさんのものを破壊し、たくさんのものを食べてきた。そしてたくさんの音楽を作り、たくさんの音楽を破壊し、たくさんの音楽を食べることにも成功してきた。我々はきっと、すこしのあいだ産業革命後の夢の世界で暮らしていただけなのであり、それはもちろん夢であるので、目が覚めるとどこかになくなってしまうのだ。

我々は今後も幻影を見続けることができるだろうか。
(P.S. 僕はこの「アート無能論」を肌で感じつつ、全力で拒否し、対抗し、音楽で打ち負かそうと、全ての音楽家と同様に、もちろん企んでいる。だって、夢から覚めたあとの現実が夢よりよかったとしたら、それは素晴らしい安堵を我々にもたらすだろうから。)


4月17日(金)

寝坊したおかげで会社に遅刻していった。電車は割と空いていた。
昨日はニコラに行ったのだった。タツキさんもいた。人の顔が見られてよかった。マスク越しに。

キャメルが切れたのでピースを買った。喫煙所は人が密集している。そして人は煙草を吸うときだけマスクを外すのだ。

帰りの電車でスマートフォンが音を立てた。僕はニュース・アプリを登録しているのだ。安倍首相の会見の知らせだった。
YouTubeを開いて、彼の会見のライブ放送を見ながら帰った。つり革には捕まらない。感染リスクを下げるためだ。恭しく礼をしながら会場に入ってくる者たちを見て、小学校の始業式だか何かを思い出した。もちろん、それには素晴らしく退屈なスピーチと、地べたに体育座りをさせられたおかげでやってくる両足の痺れを伴っている。
記者も大臣も何者かに脅されて原稿を読まされているようだった。僕の目にはもちろん首相の肩越しに銃口が見えた。

帰ったら検温してみたのだ。37.1度。僕はどんな顔をしていいかわからない。
東京では新規感染者が201人でた。僕はどんな顔をしていいかよくわからない。

4月18日(土)

家に帰ったら寝てしまった。


4月19日(日)

疲れているみたいだ。起きたらウイスキー・コークをちょびっと作って飲んだ。

スマートフォンが片手にあればほとんどベッドから出ずに済む。この長方形の端末は我々人類がベッドから出ずとも過ごせるために開発されたのだ。

近未来ではスマートフォンのボタンを使って朝食を用意したり、服を洗濯したり、掃除機ロボットを遠隔操作することすら可能だろう。そして実際にベッドから出ずともリモートワークができる環境が整いつつある。仕事すらベッドの中で完結できるのだ。シャワーを浴びるのはすこし難しいかもしれない。

まだ完全にリモートライフが整備されていない現代においては我々は自宅で生活するのにおいて、エクササイズをすることにより身体機能を維持していく必要がある。しかし全てのリモート環境が整備されればもはや我々にとってエクササイズすら必要ない。身体機能そのものが必要なくなるからだ。

僕は寝る前にベッドの中から妻にテレビ電話をつなげて、会話した。今のところは、発声機能と表情筋が必要だ。しかしそれすらも未来においては……。

東京都新規コロナ感染者数107人。


4月20日(月)

出勤しながらスティーヴ・レイシーを聴く。The Internetのメンバーではない方のソプラノ・サックス奏者の方のスティーヴ・レイシーである。僕はソプラノ・サックスを最近始めたのだ。

ソプラノを購入したころ、毎日カラオケボックスに通って練習していたのだが、現在は近くのカラオケボックスはコロナ影響下で休業中のため、サックス練習はお預けである。

行きつけの店「カラオケ・ファンタジー」が休業になったので、代わりに駅前のカラオケ屋「サウンド・イン」に電話してみたが愛想の悪い声で管楽器練習はことわられた。まるで、人間は全員敵だと言わんばかりの不機嫌さだった。彼は昼食に何か悪いものでも食べたのだろう。胃の調子がおかしくなっていたに違いない。

僕がソプラノを買ったのはジョン・コルトレーンの影響のためだ。ギターで出せる音の限界を感じ、トランペットを始めたが、それも上達が遅かったためサックスという楽器に手を出した。管楽器のいいところは吐く息がそのまま音に変換されるところである。ギターや鍵盤楽器との違いは一音に対する表現力にある。ギターを弾くときに音をベンドさせることやビブラートをかけることはできても、いちど出した音を後半になるにつれクレッシェンドで大きくすることは不可能だ。それはまたピアノにも言える。ダイナミクスが音の始まりにあり、それは変化させることができない。管楽器では息の量の調節により、クレッシェンドがいとも簡単に可能である。楽器の特性として表現に差があるのだ。

ソプラノを選んだのはギターからの持ち替えがしやすい大きさであるためであり、その音色が東洋的な響きを持っているからだ。それを僕はコルトレーンの『マイ・フェイヴァリット・シングス』を通して学んだ。西洋の楽器で東洋的な音を出すことは僕のテーマの一つであり、エレキ・ギターを使って三味線のような音を出すことにも挑戦してみている。それらの行為は僕の西洋コンプレックスと自身のルーツ、東洋人であること、日本人であること、を再考するうえで必要なことだった。

我々日本人はやはりいつまでたっても西洋コンプレックスを拭い去ることができない。コロナウイルスによる自粛体制においてすら、西洋的自粛を羨んでいるようにさえ見える。我々の奏でるジャズはいつまでたっても西洋のコピー品である。

だけどコピー品であることだって時にはいい。僕だって花粉の薬はいつも「アレグラ」のジェネリックである「アレルビ」を飲んでいるし、バターの代わりマーガリンを使ったり、ウイスキー・コークにレモンの代わりにオレンジを入れるのだって悪くない。iPhoneのコピーであるAndroidを使うし、畳の上にベッドを置いたりしている。フェンダー・ジャパンはメイドインUSAのフェンダーより必ずしも悪くはない。

我々はコンプレックスを個性に昇華し、また消化できるだろうか。コピーであることをやめ、本物であることができるだろうか。だが、またコピーをやめ、本物であろうとすること自体がコンプレックスの発現なのである。でもコンプレックスを楽しむのだって悪くない。むしろ最大限までこじらせたコンプレックスはいつだってアートの源泉になってきているのだから。


4月21日(火)

職場近くの喫煙所が三密空間のため閉鎖され、我々喫煙者は仕事の休憩中に煙草を吸うことができなくなってしまった。ニコチン不足のためボーっとした僕の頭はめまいのような心地よい酸欠状態を起こし、鈍った脳は悲しみを増幅させ、喜びはどこかに消えてしまった。煙草を吸うのをやめた瞬間、自分の脳みそが機能していないかのような錯覚にとらわれる。じんわりとした痺れがからだ全体を覆い、自分の体が自分ではないようだ。身体も脳も共にゴム玉になった感じで、精神は宙に浮いてしまう。

身体がオートマティックに動く。それは自動運転さながらで自分の意思で動かすことが難しい。このような感覚に以前も一度なった記憶がある。それはいつだったっけな。

家に帰ったら煙草のけむりを肺いっぱいに吸い込み、自分の体を汚す感触に浸る。これは一種の自傷行為なのだろう。自分のからだを傷つけることにより快感を得ているのだし、何よりその感覚が実際にある。

煙草が吸えない社会で、僕は何を持って自分のからだを痛めつけるか。暴飲であり暴食であり、カラオケで数十曲歌うことであり、激しい筋力トレーニングであり、残業であり、寝不足であり、レッドブルを数本飲むことであり、タトゥーを入れることであり、サウナであり、滝行であり、不必要なものを買いすぎることであり、スーツを着ることであり、ジェットコースターに乗ることであり、路上で寝てみることであり、飛行機に乗ることであり、絶食をすることであり、四足歩行をしたり、人前でスピーチをしたり、不格好な服を着たりすることである。


4月22日(水)

2週間分の洗濯物をコインランドリーに出しに行った。僕は支払いカードを何度か洗濯機に差し込んだが、受け付けてくれず戻ってきてしまう。困り果てた末に洗濯開始ボタンを押すと勝手に回り始めてしまった。意図せず “無銭洗濯”となってしまったことは何かもやもやしたものを脳の奥に残していった。そうでなくても、今朝、歯が抜け落ちる夢を見て気分は沈んでいたのだ。

それでも今日は、いつもに比べると気分がいい。昨日ギターの音階練習をたっぷりと行ったためだと思う。ギターの音階練習やクロマティック練習などの基礎的な練習メニューは僕にとって一種の瞑想としての役割を果たす。それらにより頭の中が整理され、畳まれていない服は綺麗にたたまれた状態でクローゼットにしまい込まれる。おかげで僕の部屋はより多くの空間を確保でき、考えの置き場所に困るなんていうことはなくなる。

情報に囲まれている状態では我々はこのような「整理の時間」を確保するのが難しい。ただベッドに寝転んでいるだけでも、携帯電話のスクリーンを見たり、何も見ていなくても何か不安が頭の中に入ってきて邪魔をしてくるのだ。僕が楽器を演奏しているとき、僕の頭の中には音と手の動きとメトロノームの動きを同期させようとする力だけが働き、このような状態においてあらゆる思考や欲求に支配されうることはない。

僕にとって音楽の最も有効な作用は以上のようなセラピー効果である。

脳内を掃除し、片付けることだ。

この作用を脳の掃除機と呼ぶことにしよう。僕は聴くだけでこの脳の掃除機的作用を与えられる音楽を作りたいと思っている。脳に掃除機をかけたあとは、アイロンをかけてシワをまっすぐに伸ばし、四角い箱に順番に詰めていけばいい。


……続く


執筆者:Naoya Takakuwa / ナオヤ・タカクワ

1992年生まれ、石川県出身。東京を拠点に活動するミュージシャン、作曲家。前身バンド、 Batman Winksとしての活動を経て、2017年、 ソロ名義での活動を開始。2018年にアルバムLP『Prologue』をde.ta.ri.o.ra.tionより発表。現在は即興演奏を中心に活動中。2019年には葛飾北斎からインスパイアされた即興ジャズ7曲入りCDーR『印象 / Impression』付きの書籍『バナナ・コーストで何が釣れるか』がDeterio Liberより刊行された。

©de.te.ri.o.ra.tion