Now Loading...

de.te.ri.o.ra.tion

MAGAZINE

ナオヤ・タカクワの日記〜2020.04.23-04.30

4月23日(木)

昨日に引き続き仕事は休みだった。レンタルビデオショップで映画を借りて観た。スパイク・リーの『ブラック・クランズマン』だ。アダム・ドライバーがどんどん好きになっていく。彼の少し鼻につく話し方が最初は少し苦手だったが、それが癖になってくる感じだ。『ヤング・アダルト・ニューヨーク』のアダム・ドライバーが一番いい。

仕事用のシャツを買った。2980円だった。仕事用のパンツも買わなければいけない。髪も少し切らなければいけないかもしれない。靴下ももう少し買い足さなきゃいけない。自分が自分で無くなっていくような気がする。だけど、自分が自分であったことなんて今までに一度でもあっただろうか。

未来のことを妻と考えてみた。2LDKの部屋を借りて、新しい冷蔵庫と椅子とスクリーンがあったらいい。そしたら一日中映画を観たりできると思う。冷蔵庫の中には常にシックスパックのビールとミネラルウォーターを入れておけばいい。レタスのサンドイッチも入れておけば完璧だろう。

明日からまた仕事に向かわなくちゃいけない。自分を半分に割っておいて、気に入らない方の半分に仕事に行かせればいい。出来のいい方の半分に家でコーヒーを飲ませたり、映画を見させたり、音楽を聴かせておけばいい。


4月24日(金)

今日もまたウイスキー・コークを作った。緊急事態宣言が発令された時にウイスキーを買い込んだ。それらを摂取することによって少なくとも一時的にコロナウイルスは収束していく。ワクチンより必要なのはアルコール。そうじゃないかい?僕はそれを知っている。

僕の髪は伸びている。切ってもまた伸びてくるのだ。久しぶりに床屋に行きたい。もし行けば5年ぶりぐらいになる。床屋に行けば一時的にコロナウイルスは収束していくように思う。そうじゃないかい?僕はそれを知っている。

久しぶりに曲を書いてみた。書くというのは比喩であり、楽譜は書いていない。打楽器を録音してから、ベース・ギターをとって、ギターもとった。キーボードでいくつかのフレーズを弾いてみた。その最中は楽しかったが、終わってから聞いてみると気に入らなかった。何かが足りていない。僕には「何か」が足りないのだ。


4月26日(日)

昨晩、『アニー・ホール』を観た。この映画を観るのは7回目だ。ウディ・アレンは少し疲れているように見えたし、ダイアン・キートンは世の中のことをほとんど何も気にしていないみたいだった。ウディ・アレンがテニスラケットで蜘蛛を叩き潰している時に、僕はこの蜘蛛なのか、アレンなのか、どちらだろうと思った。でもどちらにしても大きな違いはないのだ。

4年前に僕がかいていた日記を妻が引っ張り出してきた。ヒステリーを起こしているような文章だった。4年前の僕はウディ・アレンの服装をチェックしていてコピーしようとしていた。「何かに近づこうとする時、一番手っ取り早いのはその見た目を真似してみることだ」ということを彼は本気で信じているようだった。外見を変えてみることは一番簡単なことである。服を着替えたり、髪を切ったり、髭を切ったり生やしたりすればいいのだ。ヒッピーかまともな人間かの違いなんて、結局は髪と髭を伸ばしているかそうでないかでしかない。もちろんそれは全き嘘であり、我々は外見を変えたところで何かに追いついたり、本質を理解することは不可能だ。現在の僕はそれを知っている。それは本を読んで知識を手に入れることによっても不可能だ。結局のところ、経験が必要なのである。

その真実によって、僕は長年歳をとることを待ち望んでいる。顔に皺が刻まれ、腹に肉がつき、髪が薄くなったときにしか知り得ないこともあるのだ。
もっとも、そうなった頃には以前考えていたこと、以前の苦しみ、以前の欲求、そういったものはすべて忘れてしまっているのだ。それを思い返すためには日記は有効な機能を持っていると言える。我々はそんなものを瓶の中で酢漬けにするようにして、しまっておくことができるのだ。


4月27日(月)

ブルーマンデーという言葉がある。月曜日に仕事が始まって憂鬱になるということだ。気のせいか月曜日には電車も普段より混み合って見える。その混み方がより一層僕たちに憂鬱をもたらす。

そのブルーな気持ちさえ懐かしい。電車に乗っても土日並に人が少ないのだから。それに休日だって特にやることはないのだから。懐かしきブルーマンデー。我々の憂鬱は綺麗な空気とともにどこかに消えてしまった。

もちろん綺麗な空気が消えたというのは比喩であって、実際には自動車の行き来が減り、我々の吸い込む酸素やら二酸化炭素やら窒素やらは前より幾分クリーンになっているのである。無意識の中で、空気の汚れを意識することにより、マスク越しにしか空気を吸い込むことができなくなっているに過ぎない。それらのことは我々に、本質と感覚の剥離を教えてくれる。

素晴らしい空気。僕は時々外でマスクを外して深呼吸してみる。新鮮な空気が久しぶりに肺の中に入ってくる。僕の肺はこの空気を楽しむのに、十分に大きくないように思う。芸用の細長いバルーンのようなもので、いくら空気を吸い込んでも細長い形になってしまう。ドラム缶サイズの肺を手に入れて、空気を目一杯吸い込んだり吐き出したりしたい。それにより僕らはこれまでよりも多くのブルーを吸い込み、また吐き出すこともできるのだから。


4月28日(火)

昼前に出勤して、9時過ぎに帰った。ビールを飲んだ。2缶。ビールにたっぷりと掛けられた酒税を思うと胸が少し痛む。我々は今後、アルコール濃度の強い酒を消毒液がわりに使ったり、消毒液を酒がわりに飲んだりするだろう。

自由が丘の駅から少し。とんでもない音量のダンス・ミュージックが流れていた。どこから流れているのかよくわからなかったが、おそらく地下にあるバーから流れているようだった。僕はそんなに大きな音量で流れている音楽を聴くのが久しぶりだった。少し中に入ってみたくなった。もしかしたらこの騒動が落ち着いたら、反動でクラブが人々で埋め尽くされるかもしれない。普段クラブで踊ることのない僕がそう思うのだから。


4月29日(水)

新しいシャツを買った。無印良品に入るには整理券をもらわないといけなかった。街中には人が増えている。ゴールデンウィークが始まる直前の祝日ということが影響しているのだろう。僕は汚臭を放つマスクで鼻と口を覆い店に入って、ノータッチでものを買うことのできるICカードを使い勘定をすませた。

僕の持っている(そして日本人のおそらく90%以上が持っている)あの片手サイズの端末では、あらゆることができることがわかってきた。つまりこれまでは現実の代用でしかなかったものが、主要なものとして機能している。

僕はこの端末を使い友人と話すことができるし顔を見ることができる。仮想現実で歩き回ることができるし、ウインドウショッピングを百貨店より大きい規模で楽しむことができる。テレビで話していた人たちは現在はこの小さなスクリーンの中で話しているし、音楽はジャケ買いを無料でできる。あらゆるテキストを無料で読める。

これらは「暇つぶし」でしかないことは間違いない。暇つぶしとはなんなのか、ということを僕は正確にはわからない。そもそも我々は多くの暇を手に入れるために働き、そして手に入れた暇を暇つぶし的な何かによって消化していくだけなのだ。


4月30日(木)

音楽が美味しくなってきた。コルトレーンの『ブルー・トレイン』を聴く。穏やかに聴ける。

緊急事態宣言が延長された。勿論そうすべきだ。ウイルス自体の効力が弱まったり、新薬が開発されたり、我々の大部分に抗体ができたわけでもないのだから。この宣言を解いてしまえばまた感染者数が増大してしまう。

この宣言下でできることを精一杯やることだ。青汁を飲んだり、運動をしている。腕立て伏せと腹筋と背筋とスクワットを3セット。実を言うとシルヴェスター・スタローンの肉体を目指している。嘘。

深夜近くに散歩するのが気持ちいい。本当に人がいない。弾む気持ちを抑えつつ、こっそりとコンビニに行ってビールか何かを買って帰る。夜行性になれたら、ほんとうにいい。仕事がなくなってしまえば、ほんとうにいい。それで、夜中の街を歩き回って、世界はもちろん君と僕だけのもの。


……続く

前回までの日記


執筆者:Naoya Takakuwa / ナオヤ・タカクワ

1992年生まれ、石川県出身。東京を拠点に活動するミュージシャン、作曲家。前身バンド、 Batman Winksとしての活動を経て、2017年、 ソロ名義での活動を開始。2018年にアルバムLP『Prologue』をde.ta.ri.o.ra.tionより発表。現在は即興演奏を中心に活動中。2019年には葛飾北斎からインスパイアされた即興ジャズ7曲入りCDーR『印象 / Impression』付きの書籍『バナナ・コーストで何が釣れるか』がDeterio Liberより刊行された。

©de.te.ri.o.ra.tion