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MAGAZINE

ナオヤ・タカクワの日記         2020.05.01-05.07


5月1日(金)

ウイスキー・コークを作った。帰りにフィオナ・アップルの新譜を聴いた。暖かい一日だった。シャツ一枚でも汗ばんでくる。

僕は仕事の途中に二回煙草を吸いに出かける。煙草を吸うためにはファミリーマートの中にある喫煙室の前で、列に並ばなくてはいけない。そこに並んでいる人たちは何を考えているのかよくわからない。何かを考えているのかすら疑わしくなってくる。煙草を吸う人間は、思考を煙草のけむりにして吐き出してしまうことができるのだと思った。僕ももちろん思考をけむりにして吐き出しているのだ。

その行為の優れた部分は、頭の中を空っぽにできることだ。それから、吐き出したけむりを捕まえてきて整理してみることもできる。今日吸った20本にはそれぞれ思考が詰まっている。それらを引き出しごとに整理して、頭の中とは別のところに置いておく。おそらくは僕の肉体より少し外側に。そして、僕はそれらをいつでも必要な時に必要な分だけ取り出してくることができるのだ。

買い物リスト。映画の好きなシーン。映画の嫌いなシーン。甘ったるいカフェラテの後味。ズボンの裾にこぼした染み。ひどく怖いこと。ひどく気持ちいいこと。脇の下にかいた汗。手の甲にできた湿疹。筋肉痛。得体の知れない動物の死骸。四人ぐらいで話しているときのちょっとした居心地の悪さ。レモンの酸っぱさ。消毒液の苦さ。


5月2日(土)

ギターの弦が死んでいる。二週間。簡単に弦は音の張りをなくす。弦の音の死んだ状態は演奏者でないとあまりわからないかも知れない。弾いていると錆びついた鉄の匂いが鼻腔にこみ上げてくる。赤錆のたっぷりとついた、ベランダの手すりに腰掛けているような気分になってくる。二週間ごとに弦を張り替えるのは、環境保全的に考えてあまり良くないなと思う。エコロジストの僕は、エリクサーのコーティング弦を買おうか迷ってしまう。エコロジーについては、百歳を超えて死んだ曾祖母から学んだ。彼女は鼻をかんだティッシュ・ペーパーを四つ折りにして畳んで置いて、それを何度も使った。

僕が彼女について思い出すのは、ドアを開けたまま用をたす姿。玄関から丁度まっすぐのところにトイレがあるので、家に帰ると彼女が用を足しているのを見てぎょっとしたり、少し安心したりした。他人の用をたす姿を見ることは、一般的に言ってそれほど多いものではない。僕はあとにも先にも便器に座る女性の姿を見たのは曾祖母の姿だけである。それはおそらく僕の考える女性イメージの一部分を小さな片隅ではあるが大きな意味合いを持って占め、そこに小さな便器を建て住んでいるように思う。そしてエコロジストだった彼女はあろうことか“小”は流さないという水洗便所への冒涜を(しかしながら水洗便所は環境保全への冒涜であるがゆえに)全うしていた。

畑仕事を愛したがゆえ、あまりに腰の曲がった姿はやはり僕のことを少しぎょっとさせた。それがのちに僕がカート・コバーンに感じた、フェティシズムに似た何かと関係していることは間違いないだろう。それからケヴィン・シールズがあまりに足元を見つめ過ぎることに対しても。

彼女は時々歌を歌った。あまり歌詞も音程も聞き取れなかったが、歌う姿はまるで小さな子供みたいだった。手拍子で一定のテンポを取りながら左右に体を揺らし、あまり浮かべない笑みを浮かべていた。

たまに話をしてくれた。戦時の話だった。今は贅沢な時代だといつの日も言っていた。彼女にとっては全てが“もったいない”ものであり、“もったいない”時間だった。それでも僕が穴の空いた靴下を履いていると“みっともない”と漏らし、僕の両親に靴下を買うようにと怒鳴っていた。

彼女は毎日、念仏を唱えた。それによって救われると信じていたのか、ただ体に染みついた無意味な行為だったのかはわからない。僕はその姿がヒッピーや魔術師にそっくりだったことと、それが結局のところ自分を支配し続けているオブセッションの根源であることを今更ながらに気づく。白雪姫に出てくる魔女も、オノ・ヨーコも、チャールズ・ブコウスキーも、彼女の分身でしかない。僕は彼女を子供心に醜く、汚いと思っていた。彼女のそういった要素を嫌っていたのは、あまりにも自分が彼女に似ていたからなのかもしれない。僕は今でもよく自分が総入れ歯になる夢を見る。


5月3日(日)

友人たちのビデオ会議に参加した。少しジャズと哲学について話した。僕はディスプレイの前の方がうまく会話ができる。なぜかわからないがとにかくそうなのだ。

柔らかすぎる蕎麦を茹でて食べた後、プロテイン入りグラノーラバーをプロテイン飲料(ココア味)で流し込んだ。

『前衛音楽入門』という本を買って少しずつ読んでいる。そして、インターネット上にその本の刊行記念トーク・イベントのビデオがあった。著者の松村正人と高見一樹、そして菊地成孔が話している。そのビデオを僕は600円でレンタル購入した。シュトックハウゼンやジョージ・ラッセル、ナディア・ブーランジェについて話している。前衛音楽とは何か、から始まり前衛の意味、前衛絵画と前衛音楽の違いについて菊地さんが話しているのが面白い。その概要について書こうと思う。

前衛(avant-garde)とはそもそも戦争用語であり、最前線で戦うことを意味する。

菊地氏によると、前衛絵画は具象に対する抽象であり差異がわかりやすい。リアルな絵に対する、ピカソの絵ということである。それに対して前衛音楽というものはそもそも存在しないという。音楽はそもそもが抽象的なものだからだ。

もし具象的な音楽があったとしたら、雨の音、街の音、海の音をオーケストラでそのまま再現することである、という。それは環境音をサンプリングすることではないし、もちろんそれらをテーマにした楽曲というわけでもない。(つまり雨をテーマとした楽曲は雨の音を再現しようとしているわけではないからだ。環境音のサンプリングは写真であり、絵画ではない。つまりオリヴィエ・メシアンが試みていたことが一番近いのかもしれない。)

もちろん、それは前衛絵画と前衛音楽の持つ前提が全く違うことである。それらを考えてみることはそもそもの音楽の意味について考えることに相違ない。

結局それは音楽に対する態度のことだろう。今までのやり方を踏襲するかそうでないかということであり、それまでの歴史の中で建てられた建造物を爆破し破壊することである。つまりそれは文字通り戦争においてのテロリズムであり、しかしながら圧倒的に平和なテロリズムだ。現在でも我々テロリストたちは密かに地下で活動していて、少しずつ原子や分子の関係を研究し、繋ぎ合わせては引っ張り剥がし、いつか爆発するのを待っている。

5月4日(月)

ステーキを焼いた。薄い肉は焼くのが難しい。火の通りが早すぎるからだ。その分エキサイティングだ。

今日はうまくいった。中身はピンク色で柔らかい。外側はカリッときている。こうでないとな。ステーキを食べた後は、パワーが出る。欲が強くなる。性欲とか購買欲とか全部。

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妻と将棋をした。彼女はそのゲームのルールを知らなかったので、駒の動き方を教えた。僕が勝った。妻はもう二度とやらないと言っていた。

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今日書いた日記が一番いいできだ。

本当に。


5月5日(火)

安倍晋三バッシング、ネット右翼、そのどちらも同じくらい滑稽だ。もちろん、馬鹿であることが一概に悪いことってわけじゃあない。時にはそれが救いとなるし、頭の中に腫れ物ができるとどうも気持ちよくなってソワソワしてくるのだ。「やあ、こんちは。元気かい?」「元気だよ、君はどうだい?」一人で会話することができるのが素晴らしい。ウン、ぼくはこれでいいと思う。そこかしこに馬鹿なんて溢れてるんだしさ。「そもそも馬鹿じゃない人間なんているのかい?」「人間てものは存在からして馬鹿げたことだよ。」「まあ、ヒクツになるなって。」「……。」「おまえこそ、だって?きずつくなあ、そりゃ。」

キウィ・ジュースを妻が作ってくれた。素晴らしい。カリッとした氷が効いている。これで風呂上がりにベッドの上で書いているのだ。こんなこと、書いている気分がわかるかい?たぶんわからないだろうね。はっきり言ってものすごくいい。

ナンセンスがナンセンスを否定し、凌辱し、(“凌辱”というのも嫌な言葉だ。比喩にしろそんな言葉を使うやつはろくな人間ではないだろうな)破壊し、統合し、一緒くたになって、まともな顔をして椅子にチョコンと腰掛けているのがわかるかい?それが安倍政権だということができる。ぼくは以下のような新聞の記事を読んでいた。「キウイ新聞」の夕刊が窓から投げ込まれてきたからだ。若い記者の書いた記事だろう。それはこんな出だしで始まる。

「安倍晋三の素晴らしいところの一つは、スピーチの下手さである。私は今までにこんなにスピーチの下手な人は見たことがない。その稀少性は高く評価できるものであり、『カンペを棒読み』『官僚の言いなり』などの悪口は、実は褒め言葉である。そしてそれらを批判する態度はあくまでも弾圧されるべきだ。」

なるほど。それは一理あるだろう。それでもやっぱり安倍晋三のスピーチを聞くと毎回モヤモヤしてしまうな。それは否めない。ぼくはからだを横に倒して新聞を妻の体の上に広げてみた。続きはこうだ。

「私がそう感じたのは、それが単に『スピーチが下手』という短所を持って彼を貶める態度であるからだ。それは“いじめ”に似ているし、例えば他人の容姿を馬鹿にすること、性癖を笑うこと、吃音症をからかうこと、と同義であり、またそこには笑いがない分松本人志の3億倍も有害だ。(松本人志の素晴らしさについて語るより、“ハマちゃん”について語ることにより、さらに松本人志の“松本人志性”なるものが見えてくるという対位法によるダウンタウンの見方について今度記事にしようと思う。)
ある日、私は『英国王のスピーチ』を観ながら幼馴染の吃音症の友だちを思い出した。
––––その友人は吃音により私にはとても魅力的な男に見えた。しかし他の大多数の子供達にとってそうではなかった。彼はいじめらしきものに会い、私もいじめらしきものに加担した。それでもやはり彼は私の憧れであり続けたし、それは到達することの決してない目標だった。––––
世界はまだ吃音の美しさを知らないのである。僕は二歳のときから知っていた。吃音は世界を救うだろうと思った。ウディ・アレンの話し方に愛着を感じるのはそのせいだろうか。私は吃りを手にいれるには少々歳をとりすぎたみたいだ。」

記事を読み終えると、ぼくはその新聞から記事を切り取って残りの分を窓から投げ捨てた。下の階の老婆の顔に当たってしまった。彼女は憤怒し、履いていたヒールの靴を投げてきたが、丸めた雑誌で見事打ち返してやった。靴を拾いに裸足で歩いていく老婆を見て思った。人間は勝ちか負けかではない。ここで勝ったぼくは他のどこかで負け、あの年寄りもどこかで勝ったりするだろう。そして違うルールのもとではぼくは既に負けているし、彼女は勝っているだろう。あるところではぼくは老婆であり、老婆はぼくだろう。


5月6日(水)

村上春樹の『猫を棄てる 父親について語るとき』をキンドル・ストアで買って読んでみている。本屋がどこも閉まっていたし、唯一あいていたツタヤの本コーナーにはおいていなかった。父親について語ること、死者について語ることは我々にとって一種に慰めになる。僕自身もいつか自分の父親や家族について語りたいと思っている。いつかビデオカメラを回しながら、祖母、父親、母親、弟たちにインタヴューをしようと思っているのだ。それには何かきっかけが必要だが、死者からは話を聞くことができないため、あまり長く待っていると手遅れになってしまうのだ。あまり遅くならないうちに(鮮度が落ちすぎないうちに)それを実行しなければならない。自分のルーツを知っておくことはあまりに重要だが、腰をあげる労力は計り知れない。

妻が本を読みたいというので、自分の持っている本の中からセレクトしてみた。青山七恵の『やさしいため息』をチョイス。女性に対して女性の書いた本を薦めるのは短絡的にすぎるが、それでも自分に近い境遇のものの方が文章が入ってきやすいのは事実だ。妻がその本を読んでいて線の引いてある箇所を見つけた。多分7年か8年前に僕が引っ張った線だ。「ほのぼのとした日常って、続きすぎると苦痛だよなあ」という登場人物の台詞だった。ショーペンハウアーだ。退屈が苦痛であるということがアルトゥル・ショーペンハウアーの『自殺について』という本で書かれていたことであり、それは僕自身が長年に渡って苦しんでいた問題について、簡潔にして的確に記されていると感じる本の一つである。

我々は“労働”に苦痛を感じる生き物だが、それから離れた瞬間には“退屈”が次に僕たちを蝕み始める。いつだって労働と退屈に挟まれて、自己分裂を起こしながら生きているのが我々の人生である。なんのために人間が生きているのかについて深く知る必要が、我々人間にはあると思ういし既に同じ議題に取り組んできた先人たちが沢山いる。そこから学び、修正し、加筆しながら本当の答えを導きだすのだ。フェルマーの最終定理を人類が300年かけて証明に成功したように。数学の定理と異なっているのは、300年ぽっちで導き出せる結論などないということだけだ。それに、人々はそれぞれ別の生きる意味を見つけたり、それぞれの哲学を持ってなんとか生きているというのが現状なのである。

昼飯にハンバーガーを食べた。カールスジュニアのをテイクアウトにしたのだ。自分の部屋ではマクドナルドしか食べたことがなかった。カールスジュニアのを部屋で食べることにしたのは、店で食べるのは抵抗がある時期だからだ。ドリンクバーの機械には皆が口をつけた紙コップをプッシュバーに押し付けて飲み物を出していた。ぼくはドリンクバーの機械にコップを押し付けて、ドクターペッパーを飲んだ。それらが自分の胃を満たすのがわかった。家に帰ってから、ドクターペッパーを飲み干してから代わりに汲んだコカコーラで、ハンバーガーとポテトをを胃に流し込んだ。僕の胃の中ではいろんなものたちがうごめいているのを感じた。そして幸福すら感じた。


5月7日(木)

人々はいろんな境遇の中で暮らしているのだ。コロナウイルスや自粛よりもっと深刻な問題を抱えている人たちもいる。喫煙室にはそのような者たちが集まってくる。僕も含めて。

僕が喫煙室で人と話すとき、それは現実世界にいるときよりずっとラフな形でコミュニケートできる。銭湯に知り合いと一緒に行くとき、距離が近くなった気がするのと同じだ。リラックスの中で、モクモクとしたサイケデリックな煙たちはまるで湯気のように我々の顔の輪郭を見えにくくする。顔が見えにくくなることで近い距離にいることに抵抗を感じにくくなることが影響しているだろう。

僕はマスク越しのコミュニケーションにおいて、同じく人との距離を近めやすくなる。マスク着用とソーシャル・ディスタンスがセットである現在においてその効果は感じにくいが、マスク有、ソーシャル・ディスタンスなしになった場合、我々の社会的距離は近づいていく。それはスマホ上のアバター越しになった際にも生じる。それは媒体であると同時にある柔らかな“壁”として機能しうるのだ。

ルシア・ベルリンの『掃除婦のための手引き書』という短編集を買った。タイトルがいいじゃないか。

妻が今夜は月が綺麗で大きいと言っていた。そのあかりによって夜7時過ぎまでしっかり明るかった。


続く

前回までの日記


執筆者:Naoya Takakuwa / ナオヤ・タカクワ

1992年生まれ、石川県出身。東京を拠点に活動するミュージシャン、作曲家。前身バンド、 Batman Winksとしての活動を経て、2017年、 ソロ名義での活動を開始。2018年にアルバムLP『Prologue』をde.ta.ri.o.ra.tionより発表。現在は即興演奏を中心に活動中。2019年には葛飾北斎からインスパイアされた即興ジャズ7曲入りCDーR『印象 / Impression』付きの書籍『バナナ・コーストで何が釣れるか』がDeterio Liberより刊行された。

©de.te.ri.o.ra.tion