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ISSUE:02 橋本竜樹インタビュー・前編
「内向きなものを愛でる」
橋本竜樹インタビュー・前編
作曲家、アレンジャーとして活躍する傍ら、de.te.ri.o.ra.tion/Deterio Liberも主宰する橋本竜樹。
7/27(土)に初期名義SwingSetの楽曲を演奏するライブイベントを三軒茶屋Nicolasにて開催するとのこと。
今年活動20年の節目でもある橋本に、自身の音楽人生を振り返ってもらいました。
インタビュアーは橋本と平素より親交のある中村義響さん。
90年代以降のインディーシーンを通過したお二人の会話は、非常に濃い内容となりました。
7月某日、デテリオ音楽事務所にて。
Interview Text by 中村義響
Preface&Edit by カワイアミ
音楽をはじめた頃
中村(以下中)
ーまず音楽活動を始めたのはいつ頃なんですか。
橋本(以下橋)
ー大阪で音楽サークルの先輩と一緒に(難波)ベアーズに出たのが96年ぐらい。森田さんっていう現在、エディットOyama Editっていうのをやっている人と、久保さんという現在はFormer Airlineていう名義でドローンとか作っている人が、スカムのハードコア・バンドをやっていて。そこにベースとして参加して。
中
ーハードコア・バンドが最初だったんですか!?その後の活動と結びつかないですね。
橋
ー最初にライブハウスで演奏したのはそれだったかな。たまたま周りにそういう人たちがいたんだよね。
中
ーそれより以前、最初に楽器を手にされたのは。
橋
ー家にピアノがあったから弾いてたのと、小六か中一くらいにギターも家でみつけて弾いてた。有頂天とかBOØWY、BUCK-TICKとかのそれっぽいフレーズをコピーしてた。87~8年頃かな。
中
ー有頂天とかって小学生が聞くようなバンドだったんですか?BOØWY、BUCK-TICKは全盛期ですよね。
橋
ーうん。有頂天はその頃「上海紅鯨団」の曲だったから。BOØWYは、新聞に解散の広告とか載ってた気がする。あとはお姉ちゃんがいるやつに教えてもらうとか定番のパターン。だからTHE 東南西北(ザ・とんなんしゃーぺー)とか変なのも混ざってた(笑)。
中
ーギターを弾いていて、中学校の頃とか友達とバンドを組むみたいなことはなかったのですか。
橋
ーお金も無いし、スタジオも無い京都の田舎だったから、自分でダブル・ラジカセで多重録音して遊んでた。ダビングしながらマイク端子にオーバーダビングができるっていう。その頃は、もう洋楽が好きな人になっていたなぁ。
中
ー洋楽は何を聴いていたんですか。
橋
ー88年くらいで、遅れてデュラン・デュラン、カルチャー・クラブとか聴いていた。その後にどっかでインスパイラル・カーペッツとか聴きはじめて。当時はハードロックとマンチェスター(・ムーヴメント)の全盛期だったから、あんまり気にせず色々と聴いていた。高校生になると『スタジオ・ボイス』とかもあったから、マジカル・パワー・マコ、ジャーマン・ニューウェーブとかを覚えたり。
中
ーなるほど。少し大阪のハードコア・バンドに繋がっていきますね。では大学で大阪まで出られて、ハードコア・バンドに在籍しながら、ご自身の音楽嗜好はどうだったんですか。
橋
ーリアルタイムではなかったけど、キュアーとか好きだったな。ブラーとかはリアルタイム。でもその頃はお金がなかったから新譜は買えなくて、中古の安いニューウェーブとかばっかり聴いていたかも。ギャング・オブ・フォーとかは600円で買えたりしてたから。値打ちのない音楽を頑張って聴いてた(笑)。
中
ー90年代の初頭から中頃だと、世の中的にはニューウェーヴが一番ナシな時代ですよね。だって世はニューソウルとか、アシッドジャズ、グラウンドビートが流行っていた頃ですよね。
橋
ーそうそう。お金持ちはソウルとかレアグルーヴとか聴いていて、僕はお金がないからボディ(EBM)とか聴いていた。多分ね、レコードを買いたいだけだったんだと思う(笑)。でもそのおかげでハネムーン・キラーズとかクレプスキュールとか、そういうのも聴けたな。ヨーロッパっぽいものは安かったのかなぁ。
Swingset
中
ーSwingset名義で最初に音源を作り始めたのはいつ頃なんですか?
橋
ーそれは98年かな。
中
ーSwingsetの音源が収録されていたBambiniの最初のコンピ『Mystery Date Game』が出たのが…
橋
ーあれは99年。だからそのコンピレーション用の曲を作っていたって感じかな。
中
ー最初から収録される予定があって作っていたってことですか。
橋
ーBambiniの矢田さんと知り合ってから、コンピに入れるからなんか一人でやんなよって言われて。
中
ーBambiniというレーベルについて少し説明が必要だと思うのですが、Bambiniを主宰された矢田さんは、先に『ポプシーロック!』という雑誌を刊行されていたわけですよね。
橋
ーそうそう。僕も『ポプシーロック!』を喜んで買ってた。
中
ー『ポプシーロック!』という雑誌は、京都の大学生が作っていたインディペンデントの音楽カルチャー誌で、内容的には『米国音楽』みたいな感じでしたよね。
橋
ー地方でやっていたからか、もうちょっと内容がしっかりしていたというか。ステレオラブの全カタログを紹介するとか、それにまつわって影響を与えたであろう音楽を紹介したり。真面目に音楽を扱ってる雑誌だった。
中
ー『ポプシーロック!』は僕もギリギリの世代なんですよ。高校生の頃だったので、存在は知っていましたけど。タツキさんは雑誌の読者だったんですか?それとも既にその界隈にいたとか。
橋
ーいや、全然。なんかこんなの作ってすごい人たちがいるな~と一方的に思ってた。『ポプシーロック!』の皆さんと梶野(彰一)さん、FPM田中さんか小西康陽さんが神戸でDJするイベントがあって、そこで友達の誰かがデモテープを渡さないかって言い始めて。周りのバンドのデモテープを誰かがまとめてくれたのかな? で、僕たちとしては梶野(彰一)さん、FPM田中さんか小西康陽さんに渡したはずなんだけれど、たぶん興味もないから置いていったのかな…それを矢田さんが自分がもらったものと勘違いして拾って帰って(笑)。それで連絡をくれたの。
中
ーいいですねって?
橋
ーうん。でも渡していないのにおかしいなと思ったけど。なんでだろうって(笑)。
中
ーそのテープにはタツキさんが作った音源が入っていたんですか?
橋
ーうん。女の子のいる可愛い歌モノ。
中
ーえ、そんな音楽性の時期もあったんですか!?
橋
ーそれこそレフトバンク(※当時人気を誇ったギターポップ系インディ・レーベル)とかから出てそうな。これなら引っかかるんじゃないかなと思ったんだよね(笑)。でもいざレコードを出すときになったら、全然よくないからやっぱりやめようってなって。違うのやろうってなった。
中
ーなるほど。これも少し説明がいる背景だと思うのですが、最近の状況に置き換えると、ちょっと前のシティポップと同じかそれ以上の盛り上がりで、ギターポップという記号がインディ・シーンを席巻していた時代でしたよね。そしてタツキさんもそのブームに漏れず、片足を突っ込んでいたと。
橋
ー矢田さんとエル(※el’。イギリスのインディ・レーベル)の話とかミカドの話とかしていて、そういうの作ったらいいじゃんって!もう変なギターポップみたいなのやめなよって言われて(苦笑)。あれは本当にいいことを言ってくれたなと思います。
中
ーそこで始まったのがSwingset。
橋
ーそう。矢田さんはBambiniを始めるとき、エルみたいにしたかったみたい。ルイ・フィリップとか、ああいう雰囲気。だから名前なんて何でもよくって、実は僕はそのコンピの中で別名義でも3~4曲作ってるの。
中
ーなるほど。じゃあBambiniにとってのサイモン・ターナー(※キング・オブ・ルクセンブルグ名義の作品ほか、他アーティストのプロデュースなどを手掛け、エルのサウンド面で中核的な役割を担った)を期待されたってことですね。
橋
ーそうそうそう!サイモン・ターナー役ってこと(笑)。
中
ー当時、Bambiniからのリリースで一番評判になったのはガールフレンドだったと思うのですが、矢田さんのコンセプト通り正にエル的な世界観のアーティストでしたよね。
橋
ーだから(自分に関しては)そういうのができる人と会ったなぁって感じだったのかなぁ、向こうも。いろんなパターンの曲が作れるしって。
デスクまわり
中
ーなるほど。Swingsetは、そもそもBambiniのレーベル・ビジョンがあって生まれたんですね。そのコンピ『Mystery Date Game』がリリースされて、翌99年に単独のデビュー・7インチ『Comedies / Way To Walk』が出たわけですね。僕の記憶だと、ZEST(※宇田川町の輸入レコード店。当時は現BIG LOVEの仲真史やLEARNERSの松田岳二なども在籍)とかで面出しでリコメンドされていて、見え方として凄く良かったと思うんですよね。
橋
ーそれはZESTだけじゃないかな(苦笑)。大阪では僕みたいな音楽はもてはやされないので、空気のような存在でした。
中
ーとくにSwingsetで活動した時期にインスパイアされた作品というと、何か思い出しますか。
橋
ー『ヴァージン・スーサイド』のAIRのムードとか、Mellowとかも好きで。ちょっとサイケでプログレ。その時はベルセバとかも普通に好きだったけどね。3rdあたりの。あのアルバムがすごい暗くて好きだった。
中
ー『The Boy with the Arab Strap』ですね。Swingsetの音楽性はエル的な世界観もありますが、今日のNag Ar Junaに近いところがあるなと思っています。サイケ趣味というか。このソングライティングの部分がタツキさんの素の趣向なんですかね?
橋
ーうん、そういうことだと。
中
ーちなみに当時の制作環境というのは。
橋
ー7インチとEP『Young Armstrong』まではデモを作って、田中くんていうエンジニアが大阪にいて、ミックスと音色を詰めてくれるっていうので一緒にやってもらって。田中くんは仕事でもやっているプロフェッショナルなエンジニアだったけれども、次からはもうちょっと宅録っぽい感じで作りたいなぁと思って。アルバムからは京都のBambiniの事務所ですべて作った。
中
ーBambiniの事務所にスタジオ環境があったんですか?
橋
ーいやなかったんだけど、事務所に楽器を持ち込んで。Tritonていうサンプラー内蔵のシンセサイザーで作って、途中からレコーディング・エンジニアが入るっていう作り方に変わった。
中
ーアルバム『Flag』に関しては、ほとんど一人でつくられたわけですか。
橋
ー『Flag』からは音色とかも自分でやることになって。全部自分で管理したいなぁてなって。
中
ーアルバムがリリースされて、リアクションもあったんじゃないですか。
橋
ーうん。CDだし。インストア・ライブもしたりしてたよ。京都のヴァージン・メガストア、大阪のタワーレコード、新宿のタワーレコードかな。
中
ー結構しっかりプロモーション稼働されていたんですね。当時のバンド・メンバーというのは。
橋
ー僕と小野サトルくんと小山内くんもいたかな。
中
ーエッ(笑)。セカンドロイヤルの小山内さんですよね。何を担当されていたんですか。
橋
ー小山内くんはシェーカーを振ったり(笑)。小山内くんはかなり早い段階、2000年からシェーカーを振っていた。
中
ーへー!(笑)小野サトルさんも、後にセカンドロイヤルに所属されたシンガーソングライターですね。その時点で後のセカンドロイヤルにつながる交友があったのですね。この人脈っていうのも、やはり矢田さんがきっかけになっているんですか。
橋
ーうん。Bambiniのバイトが小山内くんで。サトルさんは大学をやめて京都に帰ってきて、僕がバンドの練習をしていたらフラッと現れて、なんか混ざってきたみたいな(笑)。それで一緒にやることになって。編成としては僕がギター・ボーカル、サトルさんギター、小山内くんがシェーカーで。でもシェーカーだけだとあれだから、ちょっとしたシンセを弾くようになって。あとはドラムとベース。
後編へ続く