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ナオヤ・タカクワの日記〜2020.05.22-05.28

5月22日(金)

カップ麺で夕食を終わらせてきた。

昨日から河合隼雄の『ユングの生涯』を読んでいる。朝食を食べながら、電車に乗りながら、ランチを食べながら、歩きながら、煙草を吸いながら、コーヒーを飲みながら読んだ。

ユングは人生で何度か、内なる啓示を受けながらその生涯を歩んできたことがわかる。ユングは少し疲れているように見えた。その疲れゆえに去勢され穏やかになったのだという感じもした。誰もが少しずつ疲れて、少しずつ消耗して、生きている。鉛筆も消しゴムも、使い終わるころにはほとんど外身は残っていないのだ。それでもなんとか踏ん張っているし、残り滓のようなものが必ず残る。その残り滓ではなく、少しずつ消滅していった外身の方がいくらか大事なのだ。それは気化し、空間の一部になってしまったのかもしれない。僕らも、様々なものが気化し埋めた大気の中で、その中の一部を吸い込み、少し変化したそれを吐き出して生きているに過ぎない。大気は我々を飲み込んでいるし、我々は大気に飲み込まれているのだ。

僕は文章を書いても鉛筆や消しゴムを消耗しない。せいぜいハードディスクの容量が減るぐらいだ。それだって文章データをゴミ箱に入れて掃除機をかければすぐに元どおりさ。

仕事をしていると、目が充血してくる。涙さえ出てきそうだ。すぐに、周りの同僚を見回してみる。じっくりと観察しても誰も彼もが目を充血させているではないか! とっさに、目薬が必要だと判断し、薬局に走った。しかし目薬は必要なかった。必要とされていたのは休養だったのだ。僕は職場にバスルームを作り、その予約管理表を作った。新しいもの好きの何人かは好んでその風呂に入ったが、何日か経つとすぐに誰も予約しなくなった。僕は毎日そのバスルームで仕事をしている。おかげで、僕の作る書類はペンの後やハンコが滲んで見にくいと不評だ。それでも僕の目の充血は治って顔色はいい。周りを見渡すと充血の目が僕を取り囲んでいる。それなら、充血のままがよかったよ。けどなぜみんな風呂に入らない? 書類が全部滲んでいれば、じきに気にならなくなるだろうに。

緊急事態宣言解除後には、焼き鳥屋でたらふく焼き鳥を食べて、たらふくビールを飲みたい。四人ぐらいがいい。レバー、皮、ねぎま、焼きトンやモツ煮込みも。たらふく飲んで食ったあと、沢山眠れればいい。路上で。あるいは、キッチンの床で。


5月23日(土)

パン線が見えるか見えないかについて妻と議論をした。僕はパン線は女性が見せようと思わないと見えないものだと主張した。妻は、誰でもパン線など見えるものだと主張した。僕が職場で同僚のパン線チェックをしていないか不安なようだった。僕はパン線チェックはしてないが、胸の大きい人をみると目が行ってしまうのだと言った。妻は僕に幻滅したようだった。それでも僕はうまいこと言い訳をしたので、彼女は理解してくれた。

気まずくなった僕は夜風にあたりに外にでた。妻のためのタールが1ミリの煙草をコンビニで買ってきた。僕らは復活した。二人で赤ワインを一本空けてしまうと、サウナで水風呂に入っているような気分になった。二人は抱き合ってすぐに眠ってしまった。半日ほど眠り続けた。起きると太陽は僕らの真上まで来ていた。


5月24日(日)

ピース。

僕らは新しい戦争の真っ只中にいる。誰がなんと言おうと“これ”は戦争なのだ。もちろん、人と人とが銃を突き合わせて戦うわけじゃない。けれど、そこには争いがあり、憎しみがあり、裏切りがあり、祈りがあり、不安があり、肉と肉とが剥がれる感覚は肌に染み付いている。戦争は少し愉快で、ちっとも愉快じゃない。「ヒュー ドカン」という効果音が我々に与えるのは原爆の落とされた悲惨な街並みではなく、「オシオキダベ~」というセリフがうしろにつくことによりコミカルで笑える情景だ。

少しして静寂と喧騒が同時にやってくる。もう僕らは灰に塗れて街をさまよっているのだ。左に行けばいいか、右に行けばいいのかもわからずに。案内人に道を訊こうにも、道路を挟んだ向こうのビルの受付嬢は違う方向を指差している。通りすがりの老人に訊いたら上を指差す始末だ。ロケットに乗って月に行ったってそこはゴールじゃないだろう。

そして、僕らが戦っているのはウイルスでもなく、政権でもなく、誹謗中傷をするネットユーザーたちでもない。あくまでも、敵は、自分自身である。そこから逃げることはできないし、殺してしまうと共倒れだ。自分自身を手なずけることができるかどうかが、我々2020年代を生きる人類の課題なのである。宗教や占い、ドラッグや技術の革新や物理学で彼らを手なずけることができる時代は終わった。酒を用いていくらか手なずけることはできる。だけど朝が来れば元どおりである。

僕はこの戦争を忘れないために、ミリタリーウォッチをつけ、チノを履き、ミリタリーバッグを背負う。徹底的に相手を弱体化させることが目的だ。銃は持たない。代わりに、フロイトの本と、チャップリンの映画と、サン・ラの音楽を携えて、戦場に今日も向かう。指で鉄砲の形を作って「バン バン」と言ってみる。空砲ですらない、何も驚かしはしない。まだ戦争に気がついてない人々に白い目で見られるだけだ。僕は今日も“ほふく前進”をしながら、列車に乗り込む。今乗り込んだことを、仲間に報告する。トランシーバーのスイッチを押すが、どこにも繋がっていないようだ。そもそもこの列車には僕しか乗っていないみたいだ。

ピース。

平和なんてない、戦争だけがある。戦争なんてない、平和だけがある。

どちらも真実じゃないが嘘じゃない。嘘だが、真実だ。

少し、疲れたので列車の窓に向かって、お前は味方か敵かと訊いてみた。味方なら右手を、敵なら左手を上げろと言った。鏡の向こうの僕は片手を上にあげた。僕にはそれが右手なのか左手なのか判断がつかなかった。


5月25日(月)

緊急事態宣言の解除が発表された。安倍氏のスピーチの映像を見ながら、この文章を書いている。僕のコンピュータの中で小さくなった彼は小さな声で語っている。BGMとして申し分ない。BGM(バックグラウンドミュージック)は我々が何かの動作や行為をする際にその邪魔にならない音楽でなければならない。彼の演説は僕の何をも邪魔することがない。また、彼の奏でる音楽はグルーヴを欠いた分断された音楽であり、その区切り方は俳句や短歌すら思わせる。しかしそれは全く流動性を欠いており、一つの言葉すら複数に分断される。一つの物語が分断されることはストレスを生む。映画を見ているときに音や映像がブツブツと途切れてしまうあの感覚……それが、安倍氏が僕に与える感覚なのだ。

自粛が終わったら、何をする? と妻に訊いた。何もすることはないよ、と彼女は言った。

そういえばユングの伝記を読み終わったのだ。次の日記で何か書こう。ユングについて読んでいると、僕の思考はふわふわしてくる。これでいいのか? という気になる。自分が生きていることが少し不確かに思える。今度はフロイトを摂取しないと、僕の脳は爆発してしまって、跡形もなくなるだろう。

シャツにアイロンを一時間もかけていた。シャツの皺はそんなに伸びなかった。


5月26日(火)

ビールは心を洗い流すようだ。僕の精神は洗濯機にかけられて、ぐるぐると回り、乾燥機にかけられて少し縮んだ。必ずしも縮むことが悪いことではない。それはぴったりと体にフィットして、ひとまわりコンパクトになった。空いたスペースを使って何かができるようになった。さて何をしようか。

『「死」とは何か』という本を読んでいたが、あまり興味深い本ではなかった。三分の一ほど読んで捨ててしまった。死とは何か知りたかった訳ではないかもしれない。死の先について想像したりしたかっただけかもしれない。死ぐらい誰だってわかっているさ。わかっていないフリをしているだけ。わかっていないフリをしているままで、僕には十分だった。それがわかったって、死を避けたりできるわけではないのだ。それは平等に我々に降りかかる一種の救いである。死をくれてありがとう。おかげで生きていられる。おかげでビールを飲める。死の美しさに惚れ惚れする。

憧れとは理解から最も遠いものだ、という言葉がある。僕が死を理解した瞬間、それは魅力を失っていく。そのために、死を理解などしたくないのだ。それは当たり前のことのように思える。だからこそ、死への理解より、死への幻想を好む。死はビールに溶けきっていて、それを飲み干してしまった。大好きな死。孤独な死。哀れな死。

偶然、インターネットで象のペニスの写真を手に入れた。その写真を見た瞬間、死のことなんてどうでもよくなってしまった。我々は小さなことばかり気にして生きているのだ。悩んだ時には象のペニスを思い浮かべればいい。我々が周りと比べていくらか小さな人間であったり、劣っている人間であったりしても、周りの誰もが、象のペニスには到底かなわない。


5月27日(水)

本日は日記お休み日とする。


5月28日(木)

シャツにアイロンをかけながらこの文章を書いている。午前0時、10分前。洗濯機は夜回すに限る。

深夜のコインランドリーで妻と踊った。その店ではジャズが流れていた。妻はジャズダンスのターンをやってのけた。それを見て僕は拍手した。あまりに見事だったから、カメラを回してみたが、あまりいい写りではなかった。そのあと、しばらく乾燥機が僕の服を回すのをみていた。

乾燥機の向こう側は磨かれた金属のようで、鏡のように僕の顔を写した。洗濯物は右へ三回転半して、その後左へ一回転し、少し停まってから、また右に三回転半回った。洗濯物越しの僕の顔は何かを物語ろうとしているようだった。5分ほどそれらをみていると、「ライ麦畑」の子の妹がメリーゴーラウンドに乗っているところを思い出して、なぜだか涙が出てきた。それは僕のつけていたマスクに染み込んでいったので誰も気がつかなかった。メリーゴーラウンドと違っていた点はただ一つだ。一方向に回り続けるのではなく、途中で引き返してくることだ。そのことが僕にとって癒しであり、救いであったのだ。

自粛が明けた後、僕たちは新しい自分として、外の世界に出なければならない。そのために、新しい靴と、新しい服と、新しい顔を僕は必要としている。新しい顔は少し悩んでいて、口元は笑っていて、目元は寂しく、困惑していながらも、その困惑を隠そうとしているのがいい。

これから、100円ショップで買った、『ローマの休日』を見ようと思っている。だってこれって今の僕たちにぴったりの映画じゃないか。


続く

前回までの日記


執筆者:Naoya Takakuwa / ナオヤ・タカクワ

1992年生まれ、石川県出身。東京を拠点に活動するミュージシャン、作曲家。前身バンド、 Batman Winksとしての活動を経て、2017年、 ソロ名義での活動を開始。2018年にアルバムLP『Prologue』をde.ta.ri.o.ra.tionより発表。現在は即興演奏を中心に活動中。2019年には葛飾北斎からインスパイアされた即興ジャズ7曲入りCDーR『印象 / Impression』付きの書籍『バナナ・コーストで何が釣れるか』がDeterio Liberより刊行された。

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