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ナオヤ・タカクワの日記〜2020.07.10-07.16
7月10日(金)
家に帰ってシャワーを浴びて、ウイスキー・ソーダを一口飲んで、ご飯を食べて、寝てしまった。
7月11日(土)
とにかく飲んでしまった。アーリータイムズをウィルキンソンで割り、胃のキャパシティが許すまで飲んだ。僕は妻が残した柚子の味がする汁なしの麺と餃子を、胃のギリギリまで押し込んだ。
最高で最低なことが起こる。しかし僕は全てをアルコールで流し込んでしまった。胃は全てを分解する。肝臓はアルコールさえ分解する。ああ、僕の胃と肝臓! それらは井戸のように全てを飲み込んでいった。
僕は全ての飲み物のアルコール度数を調整できる。それは神が与え賜った唯一の僕の能力なのだ。僕はうんと濃いウイスキー・ソーダを作ることもできたし、うんと薄いウイスキー・ソーダを作ることもできた。そもそもアルコールを何かで割ることができることすら、奇跡としか言いようがない。
僕は4杯のそれを胃に放り込み、5杯目のそれに手をつけているところだ。その程度の「それ」ですら僕に正気を失わせるのには十分だ。
今日、蛭子能収が認知症と診断されたニュースを聞いた。認知症は素晴らしいな。過去と現在がいっぺんにやってくる。僕は今のところ、過去と現在をいっぺんに経験したことはない。その芳しい「病気」と現代社会ではされてしまう現象は、時間を超越できる旅であり、我々は認知症なしに過去と現在をいっぺんに味わう方法はほぼない。僕の祖母は最高だ。認知症で僕のことを僕の知らない誰かの名前で呼んでくる。僕はそれが誰だかはわからない。しかし僕は僕が誰かのことをその「誰か」の知らない名前で呼ぶ未来を想像する。それは想像しうるものだ。そしてエキサイティングだ。僕は何十年後かにあなたのことをあなたの知らない名前で呼んでいるかもしれない。そしたら、エキサイティングだと感じて欲しい。この世の中も悪くはないなと考えてみてほしい。
7月12日(日)
僕は電車に乗って友人の元へ向かう。電車の中でショーペンハウアーを読みながらしきりに線を引いたり、メモを取ったりした。彼からの依頼で僕はショーペンハウアーを要約しようとしていたのだ。
僕はノートに「人間は死後、無になるわけではない」とか「世界はわが表象である」とか「死して、時間や空間や現世界がなくなったからといって、現存在(ダーザイン)はなくなりはしない。なぜなら、内には外の実在性に匹敵する実在性があるから」とかメモした。
7月13日(月)
ある夢を見た。シリアルを食べる夢だった。砂糖にまみれた穀物にミルクをかけて食べていた。「コーンフレークやないか」という声が響いていた。壁はコンクリート仕立てだったため、反響効果が大きく、「コーンフレークやないか、コーンフレークやないか、コーンフレークやないか……」とその声はこだました。
帰りにスーパーマーケットのシリアル売り場へ行った。頭の中に、まだあの夢の反響が残っていたからだ。「コーンフレークやないか」は永遠に消え去らないように思えた。反響音は永遠になくなることはないのかもしれない。一度鳴らされた音は、何度も反響し、永久に、完全に消えることは有り得ないのだと気付いた。ポコポコ。ボンゴを叩く。ボンゴの音は僕の耳の周りを反響し続ける。ポコポコポコポコポコポコポコポコ……
7月14日(火)
ある夢を見た。金髪で、全裸に下着だけの男にストーキングされる夢だった。今まで見た夢の中で一番不気味だった。彼は僕のある種の分身みたいなものに思えた。彼は、道路向こうのビルの壁から、ベッドの下の隙間から、定食屋の奥のカウンター席から、便器の中から、僕のことを監視し続けた。僕は部屋の窓もドアも締め切り、椅子の下もチェックして彼がいないことを確認した。その2秒後に電話がかかってきて、僕は直感で、あいつだと認識した。なんといっても彼は僕の一部なのだ。振り向くと玄関前にそいつが立っていてニタニタと笑っていた。多分彼は僕の性的変態性の化身のようなものなのだろう。
僕は自身の性欲動を分裂させ、抑圧させるのに成功したように思えたが、内実はそれに監視・支配されるようになってしまっただけだった。
仕事中、疲れてるみたいだね、と誰かに声をかけられた。疲れてるみたいだ、と僕は答えた。僕はきっと疲れているのだろう。
7月15日(水)
久しぶりにボンゴを叩く。ボンゴは素晴らしい楽器だ。叩くと音が出るし、叩かないと音が出ない。犬も歩けば棒に当たる。ボンゴも叩けば音がなる。それは「何かをすること」と「何かをしないこと」との対比である。犬は歩けば棒に当たるかもしれないが、歩かなければ棒に当たらないのだ。
あるいは歩かなくても棒に当たることはあるかもしれない。棒が上から落ちてくることだってあるかもしれないし、意地の悪い人間に棒で叩かれることだってあるだろう。それに、棒の近くに立って頭を振れば、歩かなくても棒に当たるのだ。
つまり、僕らには歩くことも大事だし、歩かないことも大事だが、歩かないとしても棒には当たりうるのだ。
僕は運の悪いことに「棒」を「感染症」と読み替えてしまう。そしてさらに悪いことに「誹謗中傷」とも。棒に当たるのは必ずしも悪いことではないかもしれない。それにしても用心が必要だ。そして棒は勿論ペニスの暗喩であり、ペニスは暴力の象徴なのだ。非暴力派の僕としては去勢をしようか考えてみるが、棒のない人生より棒のある人生の方がいくらか豊かだったりするのだ。それは不条理で汚らわしく、甘美でおぞましい。
7月16日(木)
忙しい一日。一時間の残業をする。その残業代で何を買おうか考える。『精神分析入門(下)』だったら買えるな。セルマー・パリの『スーパー・セッション』は買えないな。ニューハッタンの帽子は買えるな。パラブーツの『シャンボード』は買えないな。愛は買えるな。憎しみは買えないな。安堵は買えるが、欲望は買えないな。神秘は買えるが、経験は買えない。筋肉は買えるが、脂肪は買えない。髭を生やす環境も買えないし、近視眼も買えない。近視眼を買って、眼鏡を買いたいし、TVを買って、TVを捨てたい。TVは見ることに意味はないが捨てることには価値がある。皆間違っていることがある。何かを買うのは何かを手に入れるためだと思っている。だけどそれは全く違う。何かを買うのは何かを捨てるためなのである。僕らは何かを手に入れたように見えて、何もかも失ってしまう。それが資本主義であり、大量消費社会であり、貧困であり、富豪であり、土地と文化と精神病が地上を埋め尽くすこの美しい地球の特徴なのである。そして勿論捨てることには価値がある。捨てるためには手に入れる必要がある。僕らはそもそも生まれたときから、実母、実父を失う定めを背負っており、自らの肉体も、手に入れたそばから失うことを知っているのだ。この美しい地球も勿論失う。失ったところで気づく。もっと大事にしておけばよかったって。でもその後また気づくことがある。まあこういうものだよなって。
続く
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執筆者:Naoya Takakuwa / ナオヤ・タカクワ
1992年生まれ、石川県出身。東京を拠点に活動するミュージシャン、作曲家。前身バンド、 Batman Winksとしての活動を経て、2017年、 ソロ名義での活動を開始。2018年にアルバムLP『Prologue』をde.ta.ri.o.ra.tionより発表。現在は即興演奏を中心に活動中。2019年には葛飾北斎からインスパイアされた即興ジャズ7曲入りCDーR『印象 / Impression』付きの書籍『バナナ・コーストで何が釣れるか』がDeterio Liberより刊行された。