Now Loading...

de.te.ri.o.ra.tion

MAGAZINE

ナオヤ・タカクワの日記〜2020.09.25-10.01


「音楽家ナオヤ・タカクワによる日常の批評的分析」

9月26日(土)

少し、ジャズブルースの進行でコードトーンを追う練習をして、未だにこの程度のレベルに自分があることにある種の不甲斐なさを感じつつ、この全世界に渡って蔓延っているウイルスの影響がゼロになるまでは「修行期間」なのだと自分に言い聞かせつつ、この苦しみを楽しみとともに味わい、それを自分の一部へと昇華し、何らかのオリジナリティを生み出せる時代がくるのかどうかに思いを馳せつつ、思いがけず早起きをしてしまったことに感謝し欠伸しながら、ギターを手に持ち、アンプの電池が切れそうでごく小さな音になってしまったギターの音色を何とか衰えた耳で追いながらも、我が家の10年物の電子レンジのトースター機能でベーグルを焼き、70年代に作られた商品の復刻版であるコーヒーメーカーにコーヒーを淹れる作業を任せながら、そうか、もうすでにバック・トゥ・ザ・フューチャー的世界はとっくに到来していたのだと感じつつ、これ以上自動化を進めるには他に何があるか、他に何もないだろう、そして全てが自動化したとき我々に楽しみは残っているのかと、靴磨きをした昨晩のことを思い出しながら、非常に幼児的であることはわかりながら、自分にはまだこの程度のことしかできないのだなということを実感し、クール・ビズ・スタイルの浸透によりネックタイを首に巻きつけなくていいことの恩恵を直に肌で感じながら、簡易的な仕事着に着替え、世の中のファッション事情について思いを馳せ、すでに限界までのカジュアル化が進んだ服飾界において、おそらく10年後にはTシャツがフォーマルな仕事着として浸透し、我々の普段着は透明のビニールシートを肌に纏うようなものになるであろうと、なるだけ現実的な考察を行い、突拍子もない考えは自分の内部だけにとどめ、愛の行為の時だけに表出させるようにして、無心にベーグルの穴から穴へと食べ歩き、素朴な疑問、僕はなんのために生きているのか、について10年ぶりに考えた結果としては、その疑問自体が意味を持っていないのだと証明されたのが100年以上前のサルトルの考えだと気づき、しかしソシュールの言語学を援用すればサルトルの半分はサルであるという事実、そして、スマップはバカンスの半分はバカだと歌った、それが多分10年以上前であり、語感の類似は笑いの道具として機能するということを証明した、名前を持たないオヤジたち、そして故にオヤジ・ギャグと名付けられた数々の作品はソシュールと結び付けられることなく現代にまで(醜悪なものとして認識されつつも)やはり生き残っているのは、それが知的なものであるということを一部の人間が知っているからであり、オヤジ・ギャグの発展型がラップだということもできるし、オヤジ・ギャグの先祖が詩であるということもできるのだが、それらの事実をなんとか咀嚼しようとするには朝の時間は足らなすぎて、仕方なく僕は髭を剃る、顔を洗う、服を着替える、といったような日常に戻り、自身の意見がまとまらなかった言い訳として、やはり使えるのが「コロナ禍だから」そして、これらの課題は僕の永遠の宿題となりしばらく続くであろうこの戦争の中、戦後が訪れるのか、そしてやはり戦後はろくでもないのかについては事前に知っておきたいと思うのだが、その答えが出るはずもなく、僕のこの散らばり切った、散文と呼ぶにも散りすぎな文章をなんと呼ぶか、それともやはり呼び名は関係ないのか、それとも呼び名が全てなのか、と考えるまでもなくそれらの全ては正解であり、それゆえに身動きが取れないように感じている人類を不憫に思いながら、その態度は何様なのだ、自分も人類の一部であろうと、矛盾の一つをまた課題として背負うことになったが、これらを解決するのは長い長い夏休みが終わる前の最後の1日でいいと、僕の知っている中では一番賢い友人が言っていたのを思い出した。


9月27日(日)

きて、コーヒーを淹れようとしたが、コーヒーフィルターを切らしていることに気づき、今までコーヒーフィルターの不在に気づくことがなかった自分を呪った。折角の休みの日だというのにコーヒーが飲めないなんてことがあるだろうか。空はどんよりと曇っていて今日も洗濯物が乾く兆しはなかった。それでも明日から晴れるという、スマートフォンにあらかじめ入っている天気予報アプリが出した結論を信じることにして、今日のところは何もかも諦めてやろうという気になった。何れにせよ、コーヒーが飲めない休日の朝になんの価値があるだろうか。

僕は今にもあたりの物を全てひっくり返すほど憤慨しそうになったが、なんとか思い留めて、「いつか王子様が」を口笛で吹きながら、何もやることがないというのにスマートフォンをいじることにした。芸能人は今日も自殺していた。最新のシングル曲のヒットチャートでは既に自殺した芸能人の最新曲がランクインしていた。プロモーション・ビデオで確認できる彼の姿は死後である非現実感の中でCGのように見えたが、もちろんCGではなく死の以前に撮られた本人の映像だった。

どうやら夏が終わったようなので、タートルネックのセーターを買いに行って、帰りにアイスクリームを買った。僕の住むアパートメントのすぐ近く――歩いて5分かからないところにサーティワン・アイスクリームの路面店がある。サーティワン・アイスクリームではいつでもピンク色の制服を着た店員が掬いたてのアイスクリームを手渡してくれる。掬いたてのアイスクリームがいつでも食べられるというのはこの住まいの大きな利点だ。僕は店に入って30秒ほど迷ったが、クッキーアンドクリームとラブポーション31を注文した。ラブポーション31を注文するのはその語感ゆえにいささか恥ずかしいことだ。クッキーアンドクリームはうまく注文できたが、ラブポーション31を注文するときには声がいくらか上ずってしまった。それでも、研修中札をさげた店員はそれどころではないらしく、僕の声が上ずったことに気づいていないようだった。彼女はアイスクリームを2個分掬うのに4分弱かかった。

外に出ると晴れ間がのぞいていた。なんだ、雨なんか降らないじゃないか。コーヒーフィルターも購入し、家に帰った。

3時間後にたっぷりと雨が降った。


9月28日(月)

にビル・エヴァンスを聴きながら皿洗いをすると気持ちよかった。最近は皿洗いの時間が音楽を聴くための時間になっている。食器を洗う最中は頭の中が空っぽだから丁度いいのかもしれない。それにしても久しぶりにバッチリと晴れて暑い。

夜、煙草を切らして、コンビニに買いに行った。夜と言ってももう1時を回っていた。1時を回ると気温は丁度よくなった。帰りに目の前を遮るヘッドライトが道の真ん中に浮かんでいるのが見えた。それは自転車だったが、それに乗った50代の女性は本屋の何もない駐車場を見つめていた。僕が近づくと少し彼女は移動した。そしてなおも駐車場の方を見つめ続けていた。僕も駐車場の方をしばらく見てみたが、何も見ていて楽しいことはなかった。本屋は4時間も前に閉店していた。客も店員も誰もいなかったし、車も一台も停まっていなかった。彼女の不可解な仕草は実家の猫が何もない場所をじっと見つめていたのを思い出させる、時々僕もそうやる。大抵は何か考え事をしているとき。何もない空間を見つめ続けてしまう。午前1時の風は心地よい。

ビル・エヴァンスはいつでも僕のすぐそばでピアノを弾いてくれる。それが深夜の1時だって構わない。僕はゆっくりとミント味の煙草を吸いながら、タイム感の伸び縮みする演奏に身を委ねる。そんな午前2時には時間の流れすら伸び縮みする。


9月29日(火)

きて、ポテトチップを食べた。他に食べる物がなかったのだ。ポテトチップは昨晩妻が食べた食べ残しが少し袋の底に残っていたのを、茶碗にあけてつまんだ。ポテトチップはあまりの強度とその割れた断片があまりに鋭利であるために、寝起きの無防備な口内をそこら中傷つけた。それでも僕はポテトチップを食べ続けるしかない。他に食べる物がないからだ。正直に話すと、食べる物はあった。しかし食パンはトーストしないことには食べる気になれないし、蕎麦を茹でる時間は残っていなかった。何しろ眠りすぎたのだ。

なぜこれほどに眠ってしまったのかわからない。しかし昨日の夜何かに肩を掴まれたようにしてベッドに背中を貼り付けられた僕は思考を一切断たれたような状態になり、その眠りは永遠に続きそうに思われたが、かろうじて毎日セットするように習慣づけているアラームのおかげで僕はベッドから飛び起きることができた。昨日とは打って変わって暗い雲が空を覆っていた。部屋の中にはほとんど日は差し込んでいなかった。

昨日買ったメンソール煙草を口の中で燻らせると、緑茶のような香りが肺の中に広がった。本来は鼻腔に広がったのだろうが、煙草の煙は鼻と肺の両方に作用しているということだ。

夜は妻とダンスを踊ることにした。部屋の中で、きっちりとソーシャルディスタンスを保った上でだ。勿論。ダンスを踊ることを責めないでほしい。深夜の1時に部屋で踊ることを責められるのは我々のアパートメントの階下に住む住人だけだ。彼女からの苦情であれば、全て受け入れる覚悟はできている。僕も妻もだ。我々はそのような危険を冒してまでダンスを踊ることにした。それは我々にとって、そして人類にとってダンスが大いなる意味を持っているからだ。僕の知る中で、ダンスを音楽に合わせて楽しみのために踊る動物は人間だけである。ダンスは人間の特徴の一部として存在しており、我々はダンスを踊ることにより、ホモ・サピエンスという種の一部であることを改めて認識することができるのだ。そして種としてのホモ・サピエンスであるということは、進化論的種の進化ではなく、文化と技術の発達により文明を進化させてきた人類にとっては今日び、極薄い実感しか得られていないというのが一般論であろうし、誰もが自覚していることでもあろう。

今日のダンスの神秘が我々に何らかの効果をもたらしたのか、それとも何の効果ももたらさなかったのかは現時点ではわからない。しかし少なくとも、我々は自分たちの踊る姿を映像としてカメラに収めたし、大胆なフィルターの加工を施し、インターネットの広大な海へと送り出しさえした。それらの行為により我々のダンスは我々だけのものではなくなったわけだ。そうとも言えるし、そうでないとも言える。そもそも映像を撮りながらダンスをしていた時点で、我々のダンスは遅かれ早かれ、インターネットの海へと旅立っていたであろうことは予測できていたはずだからだ。つまり我々がダンスを踊る以前から既に、我々のダンスは全世界中の物になっていたと考えざるを得ないわけである。だけど我々だけのためのダンスはどこに行ってしまったのだろう。


10月1日(木)

きるのが遅くなったため、空腹を抱えたまま仕事に出かけた。コーヒーを飲む時間もなかったので起きた気がしない。なんとか目を覚まそうと電車内でカミュの小説を開いたが、眠気を尚更誘うだけだった。

しばらく働いて帰った。残業もした。電車は行きも帰りも混んでいた。厄介なのが、ここ半年は換気のために、常に電車の窓が開いていることだ。それは凄まじい騒音を車内に生み出す。僕はイヤフォーンを耳につけて音楽を流そうと試みはするが、騒音に飲まれて低音はほとんど聞こえないし、しっかりと音楽を聴くにはかなり音量を上げなければならない。これではかえって神経をすり減らすことにしかならないのだ。

コロナ禍以前は通勤・帰宅時が音楽を聴くための時間としてあったが、それらが消滅したことにより普段音楽を聴く時間がとても少なくなった。なんとか音楽のための時間を作ろうと、食器を洗いながらなど聴くが、十分な時間は得られない。音楽はアートの形式の一つであるというのが僕の意見だ。アートに触れる時間が少なくなった結果、アートは生活に必要ではないようにさえ思えてきた。それでもアートなしの生活には一貫した物足りなさが常に漂っている。アートに触れることは現実からの逃避であったと改めて感じる。アートのない世界では現実が世界を支配している。現実の何が悪いのか?勿論何も悪くない。それでも胃の奥に満たされない空腹感が常に残ることになる。

現実を満足の行くようにすることと、現実からの逃避願望を満足させることについて。

その二つの関係は現実がメインのご飯で、逃避願望が別腹のようなものだ。別腹の甘い甘いお菓子が欲しくなる。コーヒーだって飲みたくなる。しっかり食べたあとは煙草を一服吸いたくなる。いわば逃避願望=アート摂取はメインに対してのサブ、そして口直しであり、必須ではないが嗜好品として上質だ。

僕はなんとかアートを取り込もうとする。疲弊したからだを癒そうとする。音楽は現実ではない。小説も映画も写実画も現実を元にしているが、音楽だけはそうではない。現実から最も離れた場所、それが音楽の空間。音楽なしでは空腹は満たされても、別腹は永遠に満たされない。



※『ナオヤ・タカクワの日記』は今回が最終回となります。お読みいただきありがとうございました。
次回より新しい内容にてお届けいたします。そちらもお楽しみに。

前回までの日記


執筆者:Naoya Takakuwa / ナオヤ・タカクワ

1992年生まれ、石川県出身。東京を拠点に活動するミュージシャン、作曲家。前身バンド、 Batman Winksとしての活動を経て、2017年、 ソロ名義での活動を開始。2018年にアルバムLP『Prologue』をde.ta.ri.o.ra.tionより発表。現在は即興演奏を中心に活動中。2019年には葛飾北斎からインスパイアされた即興ジャズ7曲入りCDーR『印象 / Impression』付きの書籍『バナナ・コーストで何が釣れるか』がDeterio Liberより刊行された。

©de.te.ri.o.ra.tion