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「花粉と悪夢と音楽」音楽家ナオヤ・タカクワによる日常の批評的分析〜第十回



二週間という時間は、想像していたよりもゆっくりと、そして同時に高速のスピードで進んでいくものである(時間が《同時に》ゆっくりまたは高速に進むという文章はそれ自体が矛盾を孕んでおり、矛盾が多層構造になることでこの一文を書いたことによって僕は宇宙の外へほっぽり出されたような気分に陥る)。

時間の進み方についての矛盾のせいなのか、それとも他に原因があるのかわからない。もしかしたらこの忌まわしい花粉のせいかもしれない。ともかく何かの原因によって『音楽を聴く意味 Pt.2』を書く意欲が圧倒的に遮られてしまった。『音楽を聴く意味』の答えを見つけることができなかったとも言えるしそうでないとも言える。人間が何かを確定した真実のように語る行為は、特にこの時代において圧倒的にリスキーであるし、誰も読んでいないこの文章の中からでさえ一種の炎上を生んでしまうかもしれないという恐怖が常に襲いかかるのを感じる。

過去に犯した過ちというものがもしあったとしても、自分にとって不都合な記憶は時間とともに忘却されてしまうという人間のもつ特徴により、ほとんどのものは気にされないようになってしまう。とはいえ記憶よりも強固に残ってしまうのが文章であるし、音楽である。文章も音楽も、嫌な記憶もいい記憶も全て閉じ込めてしまうタイムカプセル的なものなのだ。つまり、過去を聴く、ということが音楽聴取だと言えるかもしれない。

CD・レコードなどの音楽媒体から聴く音楽はもちろん過去に録音されたものであるし、それ以前に楽曲は作曲された時点ですでに過去のものになってしまう。それら(CD・レコード・楽譜)は全て過去を再生する装置に過ぎない。

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ところで、僕は悪夢を見る。まあ、それは悪夢と言って差し支えないと思うのだが、《変な夢》ということもできる。《変な夢》の中には様々なグロテスクとエロティシズムとコンプレックスと非コンプレックス、リアリズムと非リアリズムが全て内包されており、それらはとてもカオティックでグラマラスでドラッギーでドリーミィ。《夢》はもちろんドリーミィであって然るべきな気はするが、必ずしも全ての夢がドリーミィとは限らないのだ。

その《変な夢》を引き起こす原因は、僕が服用している抗アレルギー薬の副作用である。毎年花粉が飛び始める時期には、《変な夢》が登場することが常套化している。《変な夢》をみること自体が、過去の花粉期に起きた様々な出来事を呼び起こす発火材となるのに加えて、夢の内容自体もノスタルジックでトラウマティックなものであるからして、僕は一言でいうと半分鬱状態になる。そしてそれと同時に、抗アレルギー薬の引き起こす眠気によって、起きている時間までもが半分もやのかかったドリーミィなものに仕立て上げられているので、半分躁状態になる。

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過去を再生する装置である音楽を愛することは、過去という名の悪魔に取り憑かれることだ。その悪魔は時と場合により様々な言葉を囁いてくる。ある時にはそれはいいものであるし、ある時にはそれは悪いものである。音楽が鳴っている時、一種のトランス状態になる。そのトランス状態はグロテスクとエロティシズムとコンプレックスと非コンプレックス、リアリズムと非リアリズムが全て内包されているものだ。

人の過去を聴く行為により、僕らは演奏家や作曲家と一体になる。花粉によるくしゃみが引き起こす記憶は凄まじい。それはいつも、卒業式の後、鼻の下を真っ赤にして撮られた記念撮影の写真を思い起こさせる。そして、耳鼻咽喉科の蒸気の噴出する管を鼻に突っ込みしばらくじっとしている時間を思い起こさせる。くしゃみをした瞬間、タイムスリップする。音楽を聴いた瞬間タイムスリップする。

アップル社にコンピュータの修理を依頼するために電話すると、担当のものに繋ぐと言われて保留された。ウォッシュト・アウトの有名な曲が流れ出した。僕は一人暮らしのアパートメントで深夜、レッドブルを数本用意して、ラップトップでギターを録音していた時代にタイムスリップした。その頃よく聴いていたのだ。ウォッシュト・アウトは元々がノスタルジックな音楽であるのに加えて、思い出補正という名のノスタルジーも加わり、実家の自分の部屋に数年ぶりに帰ったような気分にさせる。ウォッシュト・アウトは自分の曲が電話の保留音に使われると想像しただろうか。くしゃみをする。時間が逆方向へと進むのがわかる。

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朝起きるとゴミ収集車がアパートメントの前に停まったのがわかった。僕の住む地域のゴミ収集車は「好きです かわさき 愛の街」という曲を必ず流している。この曲は山本直純氏によって昭和五十九年に作曲された。この曲を、約三年間、週に二回聴き続けている。「好きです かわさき 愛の街」を聴いても僕はもはやどこにもタイムスリップしなくなった。山本氏は「好きです かわさき 愛の街」がゴミ収集車から流れてくることを想像して作曲しただろうか。少なくともバッハは自分の曲が通勤中の電車内で僕に聴かれることを意図していなかっただろう。今は誰もが、通勤中の電車内で誰かが自分の曲を聴くことを想定して曲を作っている。僕は少なくとも通勤中の電車内で聴かれるだろうなと想定して作られた曲を、通勤中の電車内で聴く気はしない。通勤中の電車内で聴かれることを想定していない曲を、通勤中の電車内で聴くというのが、ポリシーなのだ。

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僕はヨハン・ゼバスティアン・バッハと一体になり

「2段鍵盤付きクラヴィチェンバロのためのアリアと種々の変奏」が電車で聴かれていることを感じる

それはSF映画みたいで

とっても未来的だ

古めかしさは一切ない

「2段鍵盤付きクラヴィチェンバロのためのアリアと種々の変奏」が電車内で聴かれることほど

甘美で魔術的なことがあるだろうか

僕は山本直純氏と一体になり

「好きです かわさき 愛の街」をBGMにしてゴミが回収されていくのを見ている

「好きです かわさき 愛の街」がゴミ収集車から流れてくることほど

甘美で魔術的なことがあるだろうか


僕は半分鬱で半分躁状態になる



前回のコラム


執筆者:Naoya Takakuwa / ナオヤ・タカクワ

1992年生まれ、石川県出身。東京を拠点に活動するミュージシャン、作曲家。前身バンド、 Batman Winksとしての活動を経て、2017年、 ソロ名義での活動を開始。2018年にアルバムLP『Prologue』をde.ta.ri.o.ra.tionより発表。現在は即興演奏を中心に活動中。2019年には葛飾北斎からインスパイアされた即興ジャズ7曲入りCDーR『印象 / Impression』付きの書籍『バナナ・コーストで何が釣れるか』がDeterio Liberより刊行された。

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