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ナオヤ・タカクワの日記〜2020.06.19-06.25


6月19日(金)

随分雨が降った。雨は自分が10年も前からそこにいたのだという風にに少しずつ、絶え間なく降っている。僕らは10年も前から、当たり前だといわんばかりに傘を広げる。僕の傘が向こう側からやってきた知らない誰かの傘に当たる。僕は、すいませんとかなんとか言う。彼はお辞儀をして去っていく。映画とか何かで、ふとした瞬間に手が触れ合ってしまうような感触だ――例えば図書館で同じ本に手を伸ばしてしまった男女、のようなクリシェ。それが初老の男性との間に起こってしまったことに思わず照れて顔を紅潮させてしまう。だけど我々は顔を向かい合わせて照れ笑いをする間もなくすれ違い、雑踏、と呼ぶしかない塊の中へとそれぞれ潜り込んでいくのだ。

1. 雑踏が海で、僕らは魚だ。
2. 雑踏が魚の群れで、街が海だ。
3. 雑踏が細胞の一つ一つの塊で、地球は魚だ。

実はどれも間違いで、海は海で、魚は魚で、僕らは僕らなのだ。

僕はキッチンに据えてある蓋つきのゴミ箱の上にパソコンを乗せてカタカタとやっている。


6月20日(土)

仕事を終えた後、自由が丘の電気屋に向かう。遠隔式のイヤーフォンを「研修中」の腕章をつけた眼鏡の男から購入する。ところで、なぜ電気屋の店員は揃って眼鏡をかけているのだろう?

バーコードだけのついた中身のない箱を会計所に持っていくと「研修中」の男がトランシーバーを使って品番を読み上げた。しばらくすると別の眼鏡をつけた男が、中身の入った箱を持ってきて研修中男に渡す。研修中男はぎこちない笑みでガサガサ音を立てるプラスチックの袋にそれを入れて渡してきた。プラスチックの袋はなぜこんなにガサガサ言うのだろう? ぎこちない笑みは少し僕を不安にさせる。小気味のよい笑みは僕を安心させる。笑みの反語は無表情でも怒った顔でもなく、ぎこちない笑みかもしれない。

ぎこちない笑みは僕の服に染みついてしまったようだった。僕はぎこちない笑みで妻にイヤーフォンを渡した。妻はそれをぎこちない笑みで受けとってくれた。彼女が右の耳用のイヤーフォンをつけ、僕が左の耳用のイヤーフォンをつけてぎこちなく踊った。彼女と僕は不安を共有している。ぎこちなさと不安は、小気味よさと安心なんかより、ずっと友達という感じがする。


6月21日(日)

部分日食が起こるはずだった。空は雲に覆われていた。人の目に映ることのない場所で太陽は苦笑いしていた。太陽が見えないという点において日食も曇りも大した差はない。

夏至だった。

太陽が落ちた後、いつもの長い坂を登る。ジョギングをしている男がいる。僕は酔っ払っている。いつものように、スポーツドリンクを500ミリリットルきっちりと飲み干した。その後なだらかな放物線を描く放尿をした。飲酒はスポーツだ。放尿の方がもっとスポーツだ。両方、下着を履かずにやるのがエキサイティングだ。ピッチャーは投げる。バッターは打つ、もしくは打とうとする。僕は飲んで、出す分ピッチャーやバッターよりいくらか偉い。


6月22日(月)

今日も赤ワインを飲もうかと、冷蔵庫から瓶を出しておくように妻にお願いしておいた。

電車の中でジミ・ヘンドリクスを聴いたのだ。ジミヘンは少し上ずった声を出していた。僕も少し上ずった声を出してみたくなって、そうしたら向こうの座席の男がジロジロ見てきた為やめることにした。失礼な男だ。憤慨して、途中駅で電車を降りた。足元を見ると、靴が古くなっていて空いた穴から雨が染み込んできていたので捨てた。それは電車に轢かれて心地よさそうに眠り始めた。僕も是非ああなりたいものだ。

駅のホームでベンチに腰掛けた。家で待っている赤ワインと妻のことを考えた。彼らは平穏を求めているように思えた。それから三週間ばかり同じページを読んでいるフロイトの本を開いた。彼は人間が幸福を得るのに比べて、不幸を経験するのはいとも容易いと語っている。

不幸の原因には三種類ある。ひとつには、自分の身体が死ぬこと。また、死の警告としての痛みや不安。ひとつには、外界からの攻撃。伝染病や災害や事故など。ひとつには、他者との社会的関係において生まれる苦難。

僕には死の不安はなかった。それゆえ、伝染病や災害の不安もなかった。他者との付き合いはほとんどないため、苦難も存在しなかった。それでも僕は幸福ではなかった。不幸と幸福の間の隙間に挟まってしまって、身動きがとれないみたいだった。


6月23日(火)

昨晩は帰ってくるなり寝てしまった。その為、朝起きて慌ててこれを書いている。

月に一度の恒例の行事を行った。風呂場にパイプ椅子を持っていき、バスタブの淵に鏡を立てかけた。傍にはハサミと櫛を用意した。僕は髪を切るのが天才的にうまい。

5年ほど以前に、自分で髪を切ろうと思いたった。それよりさらに5年前に、散髪を失敗された後に自分で髪を切ったことを思い出したのだ。その時には、鏡にうつる新しくて、誰にも似ていない髪型を見て気に入った。自分の街に自分のビルを自分の手で構築することに成功したのだ。

とにかく、髪を切ろうと思い立ったのだ。それでも僕は散髪屋に向かった。何も喋らず、理容師の指先を目で追い続けた。その動きを一括りにコピーした。

髪の毛を切る作業は木彫りの像を作るのに似ていた。完成のイメージに沿って、荒く全体を削っていく。フォルムが見えたら細部を削っていく。それは立体であったが、髪の毛は段になっている(ここがポイントだ)段のひとつひとつを平面と捉えて、カットしていく。最後にヤスリをかけるように、飛び出た毛を切る。

5年も続ければなんでもうまくなるものだ。楽器の演奏。人とのコミュニケーション。掃除。同じ街に住むこと。実家から離れること。他人と同じ部屋に住むこと。コーヒーを淹れること。サーロイン肉を焼くこと。子宮から出ること。


6月24日(水)

水曜日は安息日と決めているのだ。父親の休日が水曜日だったからかもしれない。ブックオフで財布を買ってきた。ボロだったので安かった。重曹をかけて磨いてやった。財布は少し喜んでいた。

今日もコインランドリーへ行った。コインランドリーには色んな種類の人間がくる。夫婦が洗濯物を取り込んで行った。親子が布団を何枚まで機械に入れられるかで口論していた。老夫婦が料金表だけ見て帰っていった。僕は店に備え付けの椅子に座ってたっぷりとフロイトを読んだ。

今日のBGMはイージーリスニング風のストリングスがメインの音楽。スネアドラムに多めのリヴァーブがかかっているやつだ。気に食わないので、イヤーフォンでサン・ラか何か流した。二つの音楽は混ざり合って醜悪なものになった。醜悪な音楽はもっとも美しかった。


6月25日(木)

少し眠りすぎたのだ。野外フェスティバルに行った夢を見た。中々目当てのステージにたどり着けない夢だった。たどり着いたらがっかりしてしまうからだ。

帰ったらアサヒを飲んだ。アサヒは素晴らしい。昨日買ったウォーホルとバロウズの会話をテープ起こしした本が机の上に置いてあった。表紙には奇妙な髪型をしたウォーホルと禿げたバロウズが立っていた。ウォーホルの髪の分け目を真似してみようと鏡の前に立った。すごく右のほうから左へ髪の毛を持ってきていた(とはいえ彼はかつらだが)。僕はとんでもない量の髪を右から左へ持ってきてしまっていて、笑い者みたいになった。鏡を指差して声を出して笑ってみた。ひととおり笑い終えると、すっきりした。


続く

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執筆者:Naoya Takakuwa / ナオヤ・タカクワ

1992年生まれ、石川県出身。東京を拠点に活動するミュージシャン、作曲家。前身バンド、 Batman Winksとしての活動を経て、2017年、 ソロ名義での活動を開始。2018年にアルバムLP『Prologue』をde.ta.ri.o.ra.tionより発表。現在は即興演奏を中心に活動中。2019年には葛飾北斎からインスパイアされた即興ジャズ7曲入りCDーR『印象 / Impression』付きの書籍『バナナ・コーストで何が釣れるか』がDeterio Liberより刊行された。

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