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「とある明け方、歩いて、アマゾンへ行く」音楽家ナオヤ・タカクワによる日常の批評的分析〜第十四回



足の感覚がなくなるまで歩きつづけた。暗かった空には青白い光がさしてきていた。コンビニに入って、第三のビールを三本買った。第三のビールを三本。第三のビールなんて洒落た名前だと思う。第三の目。第三者。第三の肩甲骨。右肩と左肩と真ん中の肩。全部満足させるための三本だ。缶を開けて手に持ったまま、とにかく歩くことだけを考えていた。道はまっすぐだったしほとんど人影はなかった。公園には数人の若者がいた。レストランの営業は十時間前に終了しているからだ。そのうちの一人の隣に座るとそいつはどこかに行ってしまった。それはある意味で好都合だった。

これで人の目をきにすることなく気の抜けたビール(の偽物)を飲むことができる。手に持った得体の知れない液体を喉に流し込みながら、ぼくは携帯をポケットから取りだした。とにかく何かひとつでもできることがないか考えた。お気に入りのSNSはフォローを全部外してしまっていたし、酒が回り過ぎて読みかけの『ハックルベリ・フィン』をキンドルで読むこともできなかった。ぼくは少し考えてからウェブブラウザを開いた。今まで検索した履歴が出てきた。とりあえずアマゾンに行った。

アマゾンはとにかくアマゾンらしかった。それは極彩色のさまざまな動物がひしめき合う熱帯だった。どこかから蛇が現れて襲いかかってくるんじゃないかと思ったし、何か丈夫な植物の蔓が巻きついてくる幻想に襲われた。物音を立てるのは利口じゃない。できるだけひっそりと前に進むことが大事だ。ぼくがここにいるということを「彼ら」に悟られてはならない。ぼくは訪問者だが、歓迎される客ではなかったからだ。それでもぼくはなんとか探検を続けようとして、自分自身の「ほしいものリスト」をチェックしてみた。そのリストを見ていると、ぼくが考えていることを何もかも見透かされているような気がした。そこにはかわいげのあるデザインの靴下があり、ベレー帽があり、最新のCDプレイヤーがあり、本棚があり、マイルス・デイヴィスのソロを楽譜起こしした本があり、ウディ・アレンのDVDボックスがあり……。ぼくはその中からベレー帽を選んだ。

ベレーという帽子は捉え方によってその見え方がすごく変わる。つまり、軍隊のための帽子なのか画家のための帽子なのかである。もちろんその本質はどちらでもない。ベレーをかぶることでマッチョイズムを表明するのかそれともインテリであることを表明するのか、という二つには大きく隔たりがあるように一瞬思えるが、その二つは共存しうる。ヘミングウェイと三島由紀夫である。だからぼくはベレーをカートに入れることにした。カートのボタンを押してから五分が経過した。注文までふみきれずに、ぼくはそれをカートから出した。それはぼくが必要としているものではないことに気がついたのだ。今ぼくに必要なのはマッチョであることでもインテリであることでもなく、ただ安心することだけだった。安心を金で買うのはカンタンだ。生命保険に入ればいいし、セキュリティの高いマンションを借りればいいし、暖かい服と、ちゃんとお湯の出るシャワーを手に入れればいい。必要であればボディガードを雇ってもいいし、金庫を買ってその中に財産を入れておいてもいい。だけどそれらのすべてを手に入れたとして、ますます不安になっていく気がするのはどうしてだろう?

ぼくはアマゾンでなんでも手に入れることができた。少なくともカードの上限いっぱいまでなら。だけど品物を物色すればするほど、ぼくは不安になった。それらをすべて手に入れたとしても何ひとつとして解決するわけではないし、むしろ悩みのたねが増えていくということに気がついたのだ。ベレー帽を買ったらそれを被っていくための場所を見つけなければいけないし、CDプレイヤーを買ったらCDを買わなければいけなかった。マイルス・デイヴィスの楽譜を買えばそれを練習するための時間を作らなければいけないし、いい靴下を買えばそれがすぐにやぶれてしまわないようにそっと履かなければいけなかった。何かを買うということは不自由を買うことなのだ。

それに気が付くと、アマゾンの品物はすべてが手錠や足かせや縛りなわに見えてきた。その幻想はぼくにひとつの真理を与えた(ように思えた)。それは神の啓示だった。お告げだった。雷であり、ランプの炎だった。その啓示のようなものを受けた瞬間。ちょうどそのタイミングで日差しがぼくの顔をてらし、鳥たちが何かいいことでもあったかのようにハミングし、すぐそばをランナーが上機嫌で通り抜けていった。ぼくは自分の意識が広がり、世界と一体となるのを感じた。そして最後の煙草を吸い終え、最後のビールの一滴を飲み干した。ぼくは禁煙中だったが、構わずに吸っていた。少なくともそうすることが正しいのだとぼくは知っていた。禁煙中に喫煙することは可能なのだ。

日差しはつよくなっていった。ぼくはコンビニへ行き第三のビールを三本と爪切りとアメリカン・スピリットのメンソールを買った。店員は赤い目をしたぼくにも優しかった。やっとの思いで年齢確認のボタンを押すのを待っていてくれた。そしてぼくは言った。「アイディーで」

部屋へ戻るとこれ以上ないというくらい短く爪を切った。ぼくの指がぼくの顔をひっ掻かないように。ぼくの指があなたのからだを傷つけないように。まぶたが少し下がった。太陽はぼくのまぶたとは逆の動きで少しずつ昇っていった。日差しはどんどん部屋の中に入ってきて、中にいる人間の肌を少しずつ焼き始めた。天気がいいのはいいことばかりじゃないと思った。いいものが悪いっていうのは矛盾しているように思えるけどそうではない。多くの人びとは重大な間違いをおかしている。それにちっとも気づかないから、生きているのが容易なのかもしれない。彼らがおかしている間違いは、ものごとがいいものと悪いものに分けることができると思っていることだ。ものごとがいいってことと悪いってことは簡単に共存しうるということに気がついていないのだ。ぼくはそれをチャップリンの映画を通して学んだ。その映画の中ではチャップリンがチャップリンを演じていた。また、ぼくはチャップリンで、チャップリンはぼくでもあった。

ところで、ぼくはまだ気づいていなかった。さっき爪を切ったことが、誰かを傷つけてしまう可能性があるということに。それに切りすぎて下の肉が見えて指が痛かった。

ぼくは二箱目の煙草の外装フィルムを剥がした。禁煙中だったが剥がした。フィルムはくるくると回って行った。フィルムにはぼくの部屋が写っていた。上映が開始されたのだ。ぼくのとっている行動は回るフィルムの中で、どれくらい滑稽に映るだろうか?どう思う。チャーリー?



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執筆者:Naoya Takakuwa / ナオヤ・タカクワ

1992年生まれ、石川県出身。東京を拠点に活動するミュージシャン、作曲家。前身バンド、 Batman Winksとしての活動を経て、2017年、 ソロ名義での活動を開始。2018年にアルバムLP『Prologue』をde.ta.ri.o.ra.tionより発表。現在は即興演奏を中心に活動中。2019年には葛飾北斎からインスパイアされた即興ジャズ7曲入りCDーR『印象 / Impression』付きの書籍『バナナ・コーストで何が釣れるか』がDeterio Liberより刊行された。

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